高校生や年下の子たちに対して、
「本は読んだほうがいい」と正面切って言うことをためらってしまうのは、
本を読んだばっかりに現実の世界で生きることが多少おろそかになっていることを
身をもって感じるときがあるからだ。
ただ、半径五メートル四方で感じたことを、
さも誰にでも共通する真理のごとく言う人と話すと、
やはり子どもには本を読ませた方がいいのかなあと考えてしまう。
子どもを取り巻く大人の数はたかが知れていて、
家族と先生と、あとは、ちゃんと話す機会のある大人となると、
ちらほらしかいない。
それはそのまま子どもの経験の乏しさで、
その周りにいる大人のバラエティの豊かさも、以前より薄れてきているので、
ほんとうに子どもの周りにいる大人は限られていると感じる。
その数少ない、周りにいる大人は、子どもをしつけなければいけないこともあり
だいたい”現実的な”大人で、
どれだけ子どもが関わっていっても、
それだけでは人間としての考えの幅に限界があり、
人としても広がり方が一様にならざるをえない。
かりに、その”現実的な”大人たちを「よこ糸」として張ってみると、
縦糸に張るべきは、「本のなかにいるような大人」で、
彼らは、現実を超越した、理想や理念や空想を話す。
こどもたちが、「現実と空想」「現実的と理想的」のはざまで揺れながら、
自分というものを把握していく時期に、
本質的なことを言う「縦糸」の大人の言葉は、
こころと体のバランスを保ってくれる。
「よこ糸」の大人がいう現実的なことに対して
「そうじゃない可能性」を与えてくれる「縦糸」の大人たちは
たいてい死んでしまっているのだが、
周りの大人が言わないような、世間を超えた”ほんとう”のことを
フィクションやノンフィクションの形で伝えてくれる。
そうやって、自分のなかで「縦糸」と「よこ糸」を上手く編むことで
なんとかバランスを保った子どもたちは、
精神的にも自立していき、時がたつにつれて、
そのうち、立派な「よこ糸」の大人になり、
子どもに対して、現実的なことを言う大人になる。
その頃には、すっかり思春期に悩んだことなんか忘れて、
見事に「よこ糸」の大人としての責務を果たすようになるのだけど、
記憶の彼方に、あの日の「縦糸」の大人の存在が残っていれば、
必要以上に、子どもに、「よこ糸」の大人として入り込んでいくことはない。
「よこ糸」の大人にできることは、
子どもには「縦糸」も必要だとわかってあげることくらいで、
「よこ糸」の大人が手助けできることは少ないんだから、
やっぱり「本は読んだ方がいい」くらいは、「よこ糸」の大人として
言ったほうがいいのかもなとも、思っている。
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