民俗学者の畑中章宏さんが『死者の民主主義』という著書を出した。
民俗学者の柳田国男の死者にまつわる話を引きつつ、
社会は、現在生きている人間だけでなく、
死んでいった人たち、また、今後生まれてくる人たちも含んで構成されていると言う。
だから、「死者にも民主主義を与えよ」と。
また、カッパは、地域で起こった洪水や河川の氾濫によって死んでいった
多くの者たちを妖怪になぞらえた姿であり、
望まずに死んでいった人間たちの化身がカッパという形で存在しているので、
「カッパにも投票権を」と、訴えている。
そう考える畑中さんは、時に「妖怪力」と言うワードを使うが、
それは、過去にカッパを見たことがあるとか、
天狗に遭遇したことがあるなどという話ではなく、
「妖怪を感じる力」、さらにいえば、「妖怪に思いを馳せる力」のことだろう。
そこで、妖怪とはいったい何であるかという説明が必要になるのだけど、
ある民俗学者は、「妖怪は、神が零落した姿」であると説明する。
人間は神を祀ることで、その見返りに、五穀豊穣や村の安寧など、人間界の幸いを願うが、
必ずしも、人間が願ったとおりにこの世がうまく回るわけではない。
そうして、神を祀り、お祈りしたにもかかわらず現状が改善しなかったり、
場合によっては悪化したりすると、
人間たちは、それまで祀っていた神を打ち捨て、違う神をその位置に奉る。
人間から神の位を剥奪され、打ち棄てられた”元”神は、
行くあてもなく、人間世界の周りをうろつき、
妖怪となって、人間に悪さをしたりいたずらをするようになる。
妖怪は、かつて人間と良い関係にあった、落ちぶれた神たちの姿なのだ。
「妖怪力」を妖怪を感じる力のことだとすると、
人間社会の周りをうろついている妖怪を感じるためには、
人間社会のエッジに思いを馳せなければならない。
この世が「人間社会」だけでなく、死者のいる「あの世」や、
あの世とこの世の狭間の「妖怪世界」とも影響し合っていると考えないと、
妖怪を感じることはできない。
それは一見、オカルトや前時代的なの考え方のようでもあるけれど、
人間が意識できない領域をどう意識していくかというのが、
ポストモダンの課題の一つなのだから、簡単に、古い人間の世界観と打ち捨ててはいけない。
生死や自然と都市の「エッジ」に立っているような人は、
人間の生が、人間の意識的な選択によってだけ成立していないことを感じている。
それは例えば、
病気で死ぬ人と死なない人の間に、
生まれてくる子と生まれてこなかった子の間に、
災害で死んだ人と生き残った人の間に、理屈がないということ。
現代は、生死を分けるような場面に立ち会う人が少ないために、
死や病に対する理不尽な現実に対処する方法も共有されなくなっている。
私生児の死亡率が高かった時代は、子を亡くした母親の扱い方を知っていただろうが、
今、子を亡くした母親に声をかけられる人は少ない。
信仰や宗教を時代遅れとみなす現代では、
死が人間の選択の範疇ではないことを頭で理解してはいるが、
それをどう納得し、自分の中に収めるかということを、方法として知っていはいない。
死をどう受け入れ、生き残った人たちがどう受け入れていくかは、
政治や経済の担当ではなく、宗教や信仰が担ってきた分野だ。
この国では、その役割を、フォーマル側として、寺や神社が、
インフォーマル側として、妖怪信仰や路傍の地蔵・道祖神が担ってきた。
AIが進化していく今後の人間世界においては、
意識を含めた脳や人体のメカニズムは明らかにされるだろうが、
生死のカラクリ(メカニズム)がわかることと、
それを受け入れることは別の話。
妖怪はこれまで、
生き死にを受け入れるための方法の一つとして存在してきた部分があり、
それは、生死という、あの世とこの世のエッジに関わることを、
人間社会の外側からケアする存在だったということでもある。
そう考えると、カッパに投票権を与えても、
政治はカッパの管轄外なので、どうにも人間社会は変わらないだろう。
ただ、そんなことは分かりつつ、
投票権を持つ人間が、カッパを始めとした妖怪たちに想いを馳せる心を持っていれば、
政治の分際、人間の分際を知ることができる。
死が日常から遠ざかった社会ほど、
妖怪のような、生と死のエッジに立っている異形のものたちの存在理由は大きくなるだろう。
カッパに投票権を。
もとい、
カッパを思い出しながら投票を。