ジベタリアン

猫が毛づくろいしてる隣で、中南米の男女が地べたに座って、日向ぼっこしてる。
地べたに座ってる人見たの、久々。
芝生でも土手でもない、座るとこじゃないとこに座ってるのは、今や、外国人かホームレスか芸術家くらい。
社会の枠に囚われないことが取り柄の子ども達さえ、そこが座るべきとこかどうか吟味してから座ってる。
「ジベタリアン」ってのは「ベジタリアン」をもじってたはずなのに、地面に直に座ってた若人たちが、20年たった今、元ネタの「ベジタリアン」もどきとして、「菜食主義」を気取ってそうで時の流れが恐ろし。どろろ。

むかしむかし、あるところは、「座っちゃいけないところ」じゃなければ座ってもよくて、でも、今は、「座る(べき)とこ」以外は、座っちゃだめで、むかしむかしは、指定された「ダメ」な場所以外が、「面」としてなだらかな「OK」な場所だったはずで、それが、いつの間にか、「OK」な場所以外が、「面」として全部「ダメ」な場所になったのは、誰のせい?
ってか、どういう現象?もう誰か名前つけてますか?

畢竟、この国が三十年間、経済的に<pause>ボタン押されたように、<一時停止>し続けてんのは、外国人とかホームレスとか若者とかアーティストとか、何も生み出さないで、いらんことだけするような、人が普段座らんところに座っちゃうような人たちを冷遇してきたからだと結論づける。
かつてあった「空き地」みたく、注意されんやったら「原則遊んでOK」から、すべての土地は誰かのもんだから、「原則、公園と名のつく場所意外で遊んだらダメ」に、不文律ルールを変えたみたいなことを、オール分野で起こしたせいで、<pause>ボタンはもう硬くなって、押せなくもなってしもてる。

無駄なことからしか新しいことは生まれんし、座っていいのかよくないんかわからんところに座ってる人しか、新しい椅子や新しい遊び方は生み出せんことを、今、政治経済の中枢にいる、大学で飲み会とテニスしかしてなかったおじさん世代が知らんはずはないんやけど、いやはや、どうもね。

かつて、高円寺駅前で、家からこたつ出してきて鍋をつっついてた人たちを想い、偲ぶ。
レスト・イン・ピース。
駅前でこたつ出して鍋してみて初めて、駅前ではこたつ出して鍋しちゃいかんと知る学習プロセスの含みと豊かさについて。

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