京都の空は佐賀より狭く、東京より広い。
都会になればなるほど、空はビルとビルでトリミングされた後の残りものみたいになるわけだけど、京都はまだ、広い空が広いままで残っているところがところどころある。
そうした空の広さ、つまり、日常空間の広さと自己の広さ(尊大さ)との関係を扱った研究を、僕は寡聞にして知らないが、そこには何かしら関係があるのだろうと思う。
つまり、広く、大きな空間で過ごしている人と、狭く、制限された空間で過ごしている人の間には、寛大さや自己尊大さ、未来の展望の大きさに差が出るのではないかということである。
高校生の時に読んだ『おーい、竜馬』というマンガで、西郷隆盛は土佐にある坂本龍馬の実家にやって来て、(坂本龍馬の実家は豪商なので)、「あぁ、坂本さぁは、こげな立派か家で生まれなさったけぇ、あげな大きか人になりんさったとでごわすな」みたいなことを言っていて、家の大きさが人間としての大きさにつながるもんなんだなぁと思いつつ、でも、そしたら、土佐の農家の子どもは皆、坂本龍馬みたいな大きな人間になりそうなもんだけどなぁと思ったことを思い出す。
子どもの頃に自分が自由に遊べた範囲の広さは、人格形成にどのくらい影響を与えるものだろうか。
強迫性や発達障害を持つ人には、明確な「テリトリー」がある。
毎回、確認しなければ気がすまない場所や、決まったルーティーンを行わなければいけない対象としての場所は、その人の「テリトリー」になる。
そうした、場所を自分の「テリトリー化」してしまうことは、「自分」というものを、その「テリトリー」に広げることを意味している。
外界から隔絶され、不安を感じる人たちにとって、外の世界の一部を自分の「テリトリー化」してしまえば、自分がコントロールできる空間の確保につながる。
テリトリー化された空間は、その人の場所というより、その人そのものに近くなっているので、その場所や空間を他人に侵されることを嫌う。
他人が土足でその人の空間に入ることは、その人自身への攻撃とみなされる。
人には、そのように、自分を自分がコントロールする空間に拡張していく傾向があるため、広い敷地で育った人が「心の大きな人」や「尊大な人」になり、狭い敷地で育った人が、「心の狭い人」や「細かい人」になるという発想もわからないでもない。
エコノミックアニマルと呼ばれた80年代の日本人の家が「うさぎ小屋」と揶揄されていたことや、「金持ちけんかせず」のような慣用句は、そうした、使える敷地の広さと性格の寛大さとの関係を指摘している。
ただ、そこに関係があるとしても、そこでいう「敷地」がなにを指すのかは明確ではない。
だだっぴろい田んぼや野原の広がる大きな空の下、6畳一間の狭い公営団地に住んでいる田舎の人と、ビルで切り取られた狭い空の下、10LDKのマンションに住んでいる人では、どちらが「広い敷地」に住んでいるといえるのかはわからない。
誰のものでもない広い野原や海を自分の「テリトリー」だと思えば、人は「大きく」なれるのかもしれないし、高層マンションの広大なペントハウスに住んでいても、親との関係が悪ければ、その広い空間を「テリトリー化」できないのかもしれない。
そうした関係は検証が難しいところがあるが、新らしく人に出合うたびに、その人が育ってきた家や土地の広さを想像し、その後、その人の性格がわかった後にその「答え合わせ」をすることで、自分の「生育環境と性格との関連」に関する精度を上げることに私は、日々、努めている。