東の空に大きな月が出ている。
そんな月を見ていると、必ず口ずさむ歌がある。
小学校の時にラジオから流れてきた月の歌で、
なんどもなんども繰り返し口ずさんできた。
月がきっかけで歌を思い出すことを、
英語では「remind」という動詞を使い
「月が歌を思い出させる」と表現するが、
日本語では「もの」 をあまり主語にしないので、
「月を見ると、(私は)思い出す」という言い方になる。
唱歌でいうと、
「夏がくれば、思い出す〜、はるかな尾瀬、遠い空」という言い方だ。
「夏がくれば思い出す」で始まる唱歌「夏の思い出」は
学校の音楽の時間に覚えた。
「霧の中に浮かびくるやさしい影」
「水芭蕉の花が咲いている」
「しゃくなげ色にたそがれる」
など、今思うと随分、美しい歌だ。
音楽の時間に覚えた歌はけっこうあって、
今でも、ふと、何かのはずみで口ずさんだりする。
中高生にとって、滝廉太郎やシューベルトの古びたメロディは
どう見積もっても、積極的に歌いたい歌ではなかったが、
一度覚えたメロディは体に残っているもので、
大人になっても、なにかのはずみですっと出てくる。
「ドナドナ」なんて、道路で牛を載せたトラックに遭遇する度に、
頭の中で流れ始める。
「ドナドナ」は中東欧ユダヤ人が作った歌で、
売られていく仔牛の悲しみを歌ったものだが、
仔牛を飼ったことも、売られたこともない日本の中高生にとっては、
あの独特のメロディによって、
仔牛が売られていく悲しさがあるということを知ることになる。
戦前に作られたこの歌は、
先の大戦のホロコーストとは関係がないらしいが、
仔牛が荷馬車に乗せられる悲しい歌詞は、
どうしても、ユダヤ人の数奇な運命を連想してしまう。
「ドナドナ」から伝わる東欧ユダヤ人の悲哀にしても、
「夏の思い出」から伝わる尾瀬の美しい風景にしても、
ポップミュージックだけを聴いていたら、
知ることのできなかった音楽表現だ。
学校の授業が担っている役割のひとつは、そういうところで、
子どもが好きになるポップなものの中にはない
素晴らしさや喜びを、授業の題材は教える。
「理科」も「歴史」も、「国語」でも、それは同じで、
中学生に理解しやすいからといって、
教科書にライトノベルを載せるわけにはいかないのだ。
中高生の段階では理解できないものを教えようとしているのだから、
ある程度、授業がつまらなくなるのも、しょうがないといえる。
ただ、「ドナドナ」や「夏の思い出」、滝廉太郎やシューベルトの中に、
ポップミュージックとは違う価値があるかもしれないと気づくのは、
大人になってからなので、
それまでその歌をきちんと覚えておく必要はあって、
それができるかどうかは、学校の先生の腕次第だったりする。
「水芭蕉の花が咲いている/夢見て咲いている/水のほとり」
そういう表現が美しいなと思えるようになったのは、
美しいと思える歳まで、この歌を覚えていたからだ。
それは当時の音楽の先生のおかげであって、
この歌詞の価値がわからない歳の子どもの体の中に、
メロディを入れておいてくれたおかげなのだ。
体に記憶させた良いものは、価値が分からずとも、早晩、役に立つ。
当時の先生には、感謝したい。
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