今の高校生は、”受け身”である。
親の庇護下から出たことがない彼らは、
自発的に行動することも、自主的に判断することもない。
「今の子は、言われたこと以外、やろうとしない」
そういう感想は、多くの先生の口からこぼれてくる。
昨日、ある高校生たちと会う約束をしていたのだが、
学校で会うということだけ決め、具体的な場所を指定していなかった。
そのため、自分の教室で待っていた彼らは、
時間に僕が現れなかったからといって帰ってしまった。
こちらは約束を守らなかったわけでなく、
時間前に行ったのだが、他の先生が彼らと話し込んでいたので、
時間をあけてまた行ったまでで、
時間に来なかったからといって、帰ってしまうなんて、思いもよらなかった。
ちょっとは、探したり、他の先生に居場所を聞いたりしなよ。
それは、受け身すぎるよ・・・。
約束の時間に声かけてもらわなかったから、伝言も連絡もせずに、帰る。
そんなことは、社会では許されない。
約束の時間に会えなかったら、電話をするか、伝言を残すかだ。
今後のためにも、厳しく説教しなくてはいけない。
次の日、生徒を教室に呼び出す。
「昨日、約束してたのに、連絡なしで帰るって、どういうこと!?
お前ら、どこの”いい女”だよ!?」
約束があるのに、連絡もなしに帰って許されるのは、”いい女”だけ。
”いい女”だけが、そんなことをしても、許してもらえる。
「お前ら、男やん!そんな”受け身”の男、社会が許さんわ!」
社会は厳しい。
”私を楽しませて”と、受け身で生きていけるのは、”いい女”だけで、
約束の時間に声掛けてもらうのを待つだけの男など、許されない。
男は、約束にも、約束以外にも、
能動的に、取り組まなければいけないのだ。
子どもになにかを教える時、男だから女だからという言い方は、あまり好まれない。
好まれないというか、学校ではしてはいけないのかもしれない。
「男女は、平等」。
それが、建前。
学校は、建前を教えるところなので、本音を言ってはいけない。
男だから、女だからではなく、人間だから、ルールだから、常識だからという、
誰にでも当てはまる言い方で言わなくてはいけない。
ただ、誰にでも当てはまる言い方は、誰にも届かない言葉でもある。
人は特別扱いされるからこそ、責任感を持ったり、全力を尽くそうとする。
他の人と違い、自分は”長男”だから、”武士”だから、”キャプテン”だからという理由で、
自身の心を抑制してでも、頑張るのだ。
「長男も次男」も「武士も農民」も「キャプテンもメンバー」も、
皆、同じ立場ならば、踏ん張る必要はない。
”長男”、”武士”、”キャプテン”は、皆の代表として、
不条理にも、怒られたり、殺されたり、責任取らされたりすることがあるからこそ、
彼らは、その不条理な立場を足場にして、踏ん張るのだ。
不条理さの欠片もない、”平等”は、足場にならない。
「約束時間が過ぎたからといって連絡なしに帰ってはいけないよ、人として」
そう教えるのもいいが、
「男のくせに、受け身で生きんな。どこの”いい女”だ」と教える方が、
言ってることが不条理な分、腑に落ちるのではないか、と思う。
本当は、”男”だろうが”女”だろうが、受け身で生きるべきではない。
ただ、「平等」と引き換えに、
誰かのためにという「責任感」を剥奪された社会で育った世代としては、
たまには”性”のような”違い”を、強調した方がいいと思っている。