「人狼」というゲームがある。
村人と人狼に分けられた複数人が、推理と会話を通して、村人に紛れた人狼を探すゲームである。
最近はオンラインでやるらしい。
人狼は村人の中に紛れているため、皆は、人狼をなんとか探し出そうとする。
しかし、その過程で、本当はただの無垢の村人が人狼に疑われることもある。
一度、自分が人狼ではないかと容疑をかけられると、その容疑を晴らすのは難しい。
反論すればするほど、言葉を使えば使うほど、怪しく映る。
それは刑事事件のような大きなできごとでも同じだろうと思う。
いや、刑事事件のような大きなできごとでなくても、周囲の人間から疑わしく思われてしまった日常のケースでは、同じだろうと思う。
自分がやっていないことをやっていないと証明し、悪いイメージを払拭するのは、相当な労力がかかる。
ただ、実際の社会は、「人狼」のように、同じゲーム内にずっとい続けなければいけないわけではない。
いじめ問題を論じる際、「逃げるべきか立ち向かうべきか」が論点となるように、一緒にゲームをする相手を変えるというのは、現実において一つのオプションである。
「嘘つき」のレッテルを貼られた際には、「逃げる」ことも一つの手であろう。
現実では、「人狼」のようにランダムに役割がコロコロと振り分けられるのではない以上、なんのゲームをプレイするのか、誰とプレイするのかは、自分が主体的に決定してよいのだ。