この春から、山陰の小さな街をよく訪れる。
取り立ててこれといったところのない街だけど、
山あいから流れてくる澄んだ川と、
ぼんぼりのように夜空に浮かんでいる月は、
世界中、どこへ出しても恥ずかしくないものだと思う。
地元の人、この二つは、誇っていいです。
そのことを、ある高校生に軽く話してみたけど、
当然、なんの反応もなく、スルーされた。
高校生は花鳥風月になんか興味ないのだろうが、
大人になった僕は、毎回、清流の水面に煌めく朝日を眺めている。
「ああ、この川が東京・山手線のどこかの駅のそばにあれば、
その街は一気に『住みたい街ランキング』1位なのになあ」
そう思いながら、車を職場まで、走らせる。
都会にはうまい具合に綺麗な川がなく、
地方にはうまい具合にいい街並みがない。
うまい具合に、というか、当然のように、ない。
だからといって、都会にない綺麗な川を、
地方から都会に移したいと思っても、
そんなことは、「現実的」に不可能だ。
川は川だけで成り立っているわけではない。
川を持っていくなら、森から持っていかなければいけない。
どちらかというと、山陰の川を東京に持っていくより、
東京にある街並みを、山陰の川のそばに移す方が、「現実的」だ。
いや、もちろん、それも「現実的」ではないし、
どちらにしても、アポロ計画並の壮大なプランなのだが、
どちらかといわれれば、
やはり、東京を山陰に移すほうが「現実的」だ。
莫大な金がかかるし、人はついてこないだろうが、
移すだけなら、金でどうにかなる。
川や月の移動は、どれだけ金をかけたって、金ではどうにもならない。
だいたい、月の移動ってなんだ!?
月は別に移動させなくても、東京ででも見れるはずなのに、
山陰の月は、東京の月とは別物。
その別物の、「山陰の月」を無理やり東京に持ってくることは、
人間にはできない。
人間は、駅やビルや道路は作れても、
月や川や星や虫は、作れない。
都会には、「人間にはつくれないもの」がないが、
地方には、「人間に作れるもの」がない。
別の言い方をすると、
地方には、「人間には作れないもの」が既にあり、
「人間に作れるもの」だけがない。
なんという、幸運だろう。
都会に「ないもの」は「そもそも人間には作れないもの」だというのに、
山陰に「ないもの」は、「人間に作れるもの」なのだ。
山陰にないのは、「人間に作れるもの」だけだなんて!
なんて未来に希望のある話!
そんな感じで、頑張ろう、地方。
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