先日のWBCで野球の日本代表が敗退した時、
僕含め、野球ファンは敗戦を素直に受け入れた。
それは日本代表がアメリカ代表より劣っていたからではなく、
日本のトップ選手が全力を尽くした結果の敗戦だったからだ。
日本のベスト・オブ・ベストがベストを尽くした結果としての負けならしょうがない。
そう、野球ファンは受け取った。
サッカー日本代表の試合後に、こんな感想を聞くことはあまりない。
サッカー日本代表が負けた後は、
皆で敗因を探し、戦犯を探し、
何が足りないかを議論している。
完膚無きまでの敗戦はあっても、
ベストを尽くした結果としての、清々しい負けはない。
それは、サッカーファンがまだ、選手にできることとできないこと、
諦めるべきところと諦めてはいけないところを、
きちんと分かっていないということかもしれないが、
それよりも、スポーツの構造的な問題の方が大きいかなと思う。
野球は一つの場面場面がはっきりしているので、
流れの中で得点を取り合うサッカーよりも、
勝負の分かれ目がわかりやすい。
今回のWBCでいうと、8回裏の筒香の打席。
ここでヒットが出るかどうかが、試合結果を左右した。
結果として、ヒットは出ずに負けてしまったのだが、
だからといって打てなかった筒香を、誰も責めたりはしない。
筒香はそれまでチャンスできちんと打っていたし、
所属チームでも数字を残しているし、
もともと野球は三割しか打てないスポーツだし、
初対面の投手を打ち崩すのは容易ではない。
それをわかっているので、ファンは結果を受け入れる。
どんな場面でも全部ヒットを打てなんて、そんな無茶はいわない。
それに対し、流れの中で、チームが連動して点を取るサッカーは、
勝負の分かれ目がはっきりしない。
得点チャンスにシュートを外しても、
シュートが悪かったのか、パスが悪かったのかはっきりしない。
そして、そのプレーがどれくらい責められるべきかという数字もでない。
結果を左右する要因がありすぎるサッカーは、簡単に数値に表せない。
その結果、得点できなかったという事実が数字として残り、
失敗した選手のモヤモヤしたイメージだけがファンの脳裏に残る。
そこには、選手が全力を尽くした清々しい負けはない。
それは、選手の出来というより、スポーツの構造的な問題な気がする。
WBCやW杯予選の裏で、「森友問題」が紛糾している。
はやく切り上げたい与党と問題を追求したい野党に混じって、
役人、政治家、ジャーナリスト、マスコミ、籠池さんが、
それぞれの思惑でごちゃごちゃ動いている。
小学生の昼休みのサッカーのように、
皆が団子になってボールを追いかける試合は、
「勝負の分かれ目」が、全然見えない。
そんな試合では、「清々しい負け」は、誰にも訪れない。
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