「仏教に関する本、なんか教えてください」
そう高校生に聞かれたので、
高校生でもわかりそうな、
それでいて仏教の本質を外していなさそうな本を教えてあげる。
「仏教に関する本を教えて」だなんて、
こりゃ、なんか学校であったかな、と訝しんでいたら、
案の定、学園祭を前に、クラスメイトとごたごたしているとの話だった。
そういった、自分自身がなにか問題を抱えている時に
宗教のようなものに答えを求めるのであれば、
歴史や講話ではなく、直接心に響く言葉のほうがよい。
そう思ったので、紹介した本の中に「禅語」の本を入れる。
若者は、なんだかんだ「名言」「決めゼリフ」「スローガン」に弱い。
物語や歴史ではなく、自分が抱えている現実のケースに直接参考になりそうな
抽象的な言葉を探している。
私も中学生の頃、塾の帰りに、本屋さんで買った
「こころを豊かにする50の言葉」みたいなタイトルの本を、
友達と夢中になって電車の中で読んでいた覚えがある。
(ぼくもあのころなにか問題を抱えていたのだろうか)
大学生になって実家に帰省した際、中学時代に読んでいたその本を
パラパラとめくってみると、
「なんでこんな本になけなしの小遣いを出したんだろう」とその言葉の軽さに愕然としたが、
人には(男には?)そういう、言葉を欲する時期が一度はくるのだろう。
(他にも「人についていきたいと思わせる50の言葉」とか
「こころに火をつける50の習慣」とか、とにかく50の言葉が載っている本を多く買っていた)
中学生の一時期夢中になった本の中で、
大人になった今でも覚えている名言はほとんどなく、
唯一、記憶に残っている言葉が
「トムソンガゼルはジグザグ走る」という言葉だった。
現実世界のどういうケースでその名言が使えるのかは謎だが、
「トムソンガゼルがジグザグ走る」ことが比喩になりそうな場面を心待ちにしている。
仏教の言葉や禅語は、そのような、
一部の人しか覚えていないような名言やスローガンとは違い、
「主人公」や「挨拶」など、
普通の日本語として定着しているものから、
「一期一会」や「阿吽の呼吸」のように、
誰もが知っている慣用句まで、広く人々に知れ渡っている。
それらの多くは、禅僧たちが、
修行の中で発した言葉や書き残した言葉が語り継がれたもので、
「こころを豊かにする50の言葉」のように、
名言を言ってやろうと思ってひねり出した言葉ではない。
書に書かれた文字を読んだ弟子や、発せられた言葉を耳にした人たちが、
「これはいい言葉や」と思って、後世に伝えたものなのが禅語なので、
禅語には、時間の流れに耐えてきた含蓄があるし、
時間の流れに耐えてきた証として、
含蓄がなくてもあるように思わせるパワーがある。
その禅語に含まれる含蓄や重みは高校生でもわかるやつはわかるし、
たとえ、高校生時代にわからなかったとしても、年齢を重ねていけば、
誰でも、含蓄のある言葉とそうでない言葉の違いはわかるはずだと思っていた。
しかし、昨日、
元文部科学大臣である国会議員が、座右の書として、一冊の本を紹介している記事を見にして、
僕は愕然とした。
その国会議員が人生の一冊としてピックアップした本が、僕が中学生の時、
塾の帰りの電車の中で読んでいた名言本だったのだ。
国会議員が、しかも、文科大臣が、最も大切にしている本が、
自己啓発系の名言集だなんて、どういうことなのですか。
百歩譲って自己啓発本を挙げるのはいいとしても、
僕が中二病に浮かされていた時期に夢中になった本を挙げるだなんて!
国会議員は嘘でも、古典とか、世の中で名著と言われているものを
座右の書に挙げてくれないと困る。
そうしないと、国の教育のルールを作る人達が、
実は、文学や知性において大事なことをわかっていないんじゃないかと、
訝しがられる可能性がある。
座右の書によって、国民が国会議員をジャッジしていることだってあるのだ。
特に、文科省系は教育に関わっている人たちから見られているし、
経産省系は、経済に関わっている人たちからいつも見られている。
(経産大臣の座右の書が「もしドラ」だったらシラケるでしょう)
しかし、古典や名著も当時は古典ではなかったわけだから、
「トムソンガゼルはジグザグ走る」という言葉が
100年後に名言になっている可能性だってある。
100年後に古典になる可能性を、
現時点でその国会議員が見抜いていた可能性だって捨てきれない。
そうであれば、逆に、この人は見る目があった、
大事なことがわかっていなかったのは僕の方ということもあるかもしれない。
そうであれば、どうもすみません。
100年前に、謝っておきます。
そんなことはないとは思いますが、先に謝っておきます。