名言

名言には2種類あることをご存知だろうか。
2種類とは、誰が言ったかが重要になる名言と、誰が言ったかに関係なく名言になる名言である。

エジソンは「発明とは1%のひらめきと99%の努力」と言ったらしいが、これは「発明王・エジソン」だから皆が納得するのであって、「熱海のエジソン」とか、「博多のエジソン」とか言われる人たちが言った名言だったとしたら、ここまでは広まらなかっただろう。

逆に、誰が言ったのか知らなくても広まる名言というのもある。
例えば、「天災は忘れた頃にやってくる」。
これは、科学者の寺田寅彦が言った言葉だが、別に、寺田寅彦が言ったことを知らなくても、みな、納得して口にすることができる。
誰もが思い当たる場面を言い表しているので、著作権フリーの名言として、誰がはじめに言ったか、引用元を参照せずに、皆が使っている。

そんな、誰が言ったかに関係しない、そのへんの人たちがつぶやくように言った名言のひとつに出会ったのは、5年前のこと。
久しぶりに会う友人と広島で待ち合わせをしてると、集合時間までまだ時間があったので、僕は本を開いて読んでいた。
待ち時間に本。
それはもう、「待ち時間」というよりも、「読書時間」と呼べるものであり、いくら相手が遅れてきてもまったく苦にならなくなる。
むしろ、本の世界に入りすぎて、誰にもこの読書時間を邪魔されたくないと思い始め、相手がなるべく現れないことを望むようになる。
駅前のベンチで待っているにもかかわらず、ノートとペンを取り出して、本の内容をまとめておこうかと思い始めたその瞬間、「おまたせ」と相手が登場する。
僕は恨めしそうに顔をあげ、「早ぇよ」と返す。
時間に遅れたのに「遅ぇよ」ではなく「早ぇよ」と言われた友人は、きょとんとした顔をしている。

僕がしぶしぶ本をかばんに戻そうとすると、友人が、「そんなに(懸命に)、何読んでんの?」と聞いてくるので、その時、読んでいた本のタイトルと、その本がいかに新しい領域を切り開いているのかという内容を話す。
友人は、何気なく聞いたつもりの質問に思った以上の答えが返ってきたものだから、興味なさそうな相づちを打ちつつ、「ま、でも、結局、人が書いたことだからな」と、つぶやく。

「ん?」と思い、同時に、「そうだな」と思った。
「結局、人が書いたこと」

確かに、どれだけ本を読んで知識を得たところで、それは他人の考え、他人が書いた文章だ。
自分が考え、自分でたどり着いた答えではない。
容易で簡単なショートカット。
そんなショートカットを使っても、それは、テレビのリモコンに一つ機能が追加されるようなもので、余計な、ほとんど使わない、全体としては追加されればされるだけ全体のバランスが悪くなるようなボタンが自分にくっついただけとも言える。
テレビのリモコンにどれだけボタン(できること)が増えても、iPhoneには勝てないように、知識をどれだけくっつけても、自分で考えた人には勝てない。

「本って、結局、人が書いたことだからな」
これは、名言だと思った。

ただ、その名言を放ったその友人が、これまでたくさんの本を読んできたのかというと、まったくそんなことはななく、むしろ、ちゃんと読んだといえるのは、ジャンプとマガジンと、コロコロコミックくらいしかなかった。
ちゃんと本を読んだことのない人が、本を貶す。
それは、本の価値をわかっていない人の戯れ言ではないのか。
もしくは、自分が読めないからって、僕を腐して、溜飲を下げているだけなのではないだろうか。
そう思った僕は、「名言だな」と思うと同時に、「お前が言うな」とも思った。
お前は、まず、読んでから言えよ。

しかし、知らないからこそ言い当てられる本質というものはある。
「王様は裸だ」と言ったのは権威について何も知らない子どもで、ピカソの絵を純粋に喜べるのも、多くの絵を鑑賞してきていない子どもである。
知らない者は、知らない世界の本質的な弱点を知っている。
もし名言に、誰がはじめに言ったのかの著作権が付いていたら、ほとんどの人は名言を吐けない。
名言を著作権フリーにしておくことで、多くの名言がまちなかでも生まれるのだ。

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