人には「呼び名」がたくさんある。
名字で呼ばれることもあれば、名前で呼ばれることもある。
肩書で呼ばれることも、ニックネームで呼ばれることもある。
電車に乗ってる時は「お客さん」と呼ばれるし、
お茶を点てている時は「亭主」と呼ばれる。
それは、立場によってこなす役割が多いという話でもあるが、
「呼び名」の数だけ役割があるという話でもある。
「立場や役割が人を作る」という話は、
子どもを育てることで、初めて、人は母親になっていくとか、
部長になることで、事後的に、人は部長らしくなっていく、
なんかの話を例に言われるけれど、
「役割」だけじゃなく、
「呼び名」が人を作っているんじゃないかと思うことがある。
同じ役割をこなしていても、
所属しているコミュニティごとに呼ばれる名前は違ったりする。
ある部署では名字で呼ばれているのに、
違う部署ではニックネームで呼ばれる。
その違いは些細なことかもしれないけど、
その呼び名が、そこでの立ち居振る舞いを決めていたりもする。
周りが勝手に決めた、というか自然に決まった「呼び名」に引っ張られて、
立ち居振る舞いを考えながら、周りの人との関係を作っていく。
「役職」や「肩書」に合わせて自分を作っていくように、
人は、「呼び名」に合わせても、自分を作っていくのだ。
ムツゴロウさんが「ムツゴロウさん」と呼ばれる前、
どれだけムツゴロウさんがムツゴロウだったかは知る由もない。
畑さんは、「ムツゴロウさん」と呼ばれることで、
徐々に「ムツゴロウさん」になっていっただろう。
さかなクンが、もし、今でも、「さかなクン」でなく、本名で呼ばれていたとしたら、
今、さかなクンはどこまでさかなクンだっただろうか。
自分のことを後から振り返えると、
自分にしっくりくる「呼び名」があった場所には、
しっくりくる人との関係があった。
逆に、自分にしっくりくる呼び名で呼んでもらえなかったコミュニティでは、
最後まで、そこにいる人たちといい関係を築くことはできなかった。
自分への「呼び名」がしっくりくるのは、
「周りが見ている自分」と「自分が見せる自分」が一致しているからだ。
自分への「呼び名」がしっくりこないのは、
「周りが見ている自分」が「自分ではどうでもいいと思っている自分」だからだ。
日本では、「私のことはキャサリンって呼んで♪」と、
自分の「呼び名」を周りに強制することはしないけれど、
「呼び名」が人間関係を決めていくと考えると、
これからは、少しばかり
「呼び名」の自己申告をOKにすることも検討したほうがいいかもしれない。
もしくは、ニックネームをつけるのが上手いという能力を、
もっと可視化したほうがいいのかもしれない。
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