物理学者・湯川秀樹のエッセイを読んでいると、
「感覚器官と科学技術」にまつわる文章があった。
科学文明が発達するに従って、
科学技術は、人間の感覚器官を補強するようになった。
望遠鏡や双眼鏡は人の目では見ることのできない部分を見せるようになったし、
近眼鏡や老眼鏡は、目の働きを補ってくれた。
補聴器というものも、耳の働きをおおきに助けてくれるようになった。
「しかし、強化されたのは主として視覚と聴覚であった」
強化されたのが視覚と聴覚で、嗅覚や味覚が置いてけぼりをくらったのは、
視覚や聴覚の働きである「光」や「音」が、科学の対象になりやすかったからだ。
視覚と聴覚以外の器官は強化されることなく、
むしろ嗅覚に関しては退化したのではないかと、筆者は言う。
日本人の嗅覚がこの半世紀で退化したのは間違いないだろうと思う。
それはまちから匂いが消えたからだ。
以前、まちの中で混じり合っていた残飯の匂いや野良犬の匂い、
汲み取りの匂いやドブ川の匂い、
各家庭の台所から流れる料理の匂いや、木工所の木の匂い、
食堂の匂い、魚屋の匂い、オシメの匂い、おしろいの匂い。
その他もろもろ、生活の中で普通にしてた匂いが消えてしまい、
まちは無臭になった。
まちが無臭になると、
鼻が嗅ぎ取る匂いのバリエーションが限られてきた。
料理の匂いとか香水の匂いとか。
特定のシーンだけの特定の匂い。
そうやって、嗅ぐ匂いのバリエーションが狭くなると、
狭い範囲の中の匂いに対してだけ鼻は敏感になる。
「加齢臭」などと騒ぐのも、そのせい。
「加齢臭」なんていうが、男は昔から臭く、
肉体労働者が多く、エアコンも付いていなかった昭和時代のおじさんたちが
今のおじさんたちより臭くなかったはずがないのに、
今のおじさんたちは、周りから「臭い」と、匂いを責められている。
本当に、かわいそうでしかない。
(昭和のおじさんも、思春期の娘に「お父さんの服と一緒に洗濯したくない」
と言われることはあっただろうが、
世間は娘に「ばかなことを言うんじゃない」と叱ったはずだ。
40年代くらいまでなら「この臭さが大黒柱の匂いだ!」くらい言ったのかもしれない。
当時、おじさんの匂いは「大黒柱の匂い」ではあっても「加齢臭」ではなかった)
「加齢臭」なんてもので騒ぐのは、まちから匂いが消えたせいで、
街に匂いがあれば、こんな弱い匂いに人が反応することもなかったはずだ。
社会から匂いを消し去ったせいで、
人々が、どうでもいい、一部の弱い匂いに急に敏感になった。
それはまるで、あちこちでみられる”アレルギー”と同じ。
前提を”清浄”にしすぎたせいで、少しの”不浄”に反応してしまう。
みんなが普段の生活から肥溜めを眺めて、
自分らが出したうんこの匂いを嗅いでりゃ、
自分たちがいかに臭いものを出す存在か確認できてたものを 、
うんこを科学技術によってすぐに下水で流しようにしちゃうから、
うんこに比べたらどうでもいいような「加齢臭」なんかを
みんなの鼻が嗅ぎ取ってしまう。
科学文明が視覚と聴覚に比べて嗅覚を相手にしてこなかったのは、
「匂い」というものが科学の対象になりにくかったということに加えて、
研究対象である「匂い」が、人間の生理に近すぎるために、
文明社会では、急速に世の中から追いやられるということを、
科学文明自体が知っていたからかもしれない。
※「匂いが消えた」こともそうだけど、「匂いが漏れなくなった」ことも問題ですね。
人ん家の夕餉(ゆうげ)が、家の外に漂っていない
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