国語の授業

国語の授業がどうやったら楽しくなるか考えている先生がいた。
偉い。
惰性に伏さないその態度こそ、教師の鑑。
いや、しかし。
学校はどこまでいっても行かされる場所だということを忘れてはいけない。
どんなに楽しくても工夫しても、授業は授業。
音楽の授業で、滝廉太郎の代わりにK-POPを歌ったところで、音楽の授業がそれほど楽しくなるわけじゃなく、リコーダーの代わりに作曲ソフトを教わったところで、リコーダーと同じくらい適当に触って終わるに決まっている。
好きな歌は、自分の部屋で、電車のなかで、自転車にまたがりながら口ずさむから楽しいんであって、クラスメイトと息を合わせて合唱しても、メロディが色褪せてしまうだけ。
学校というかパブリックな場所とはそういうところ。
面白いものを面白くなくするところ。
本音でなく建前で語るところであり、敢えてそこで本音を語ってみたりしてもシラケるところ。
でも、学校には、ネリケシとか牛乳じゃんけんとかドロケイとか、学校でしか面白くならないものもある。
規制され縛りがありすぎるがゆえの特別な遊び。

学校は学校として、基本、面白くないものとして考えていけばいけばいいし、
その前提のもとで国語の授業も考えるべき。
ただ、限りはあるが、工夫の余地は残っている。
その先生の授業を受けて、「古典が苦手じゃなくなった」って生徒を少なくとも数人は僕が知っているのだから、その先生が頑張る意味はあるのだろう。
学校に限らず、どんな仕事も制約があり、限られた意味を探す営みである。
どんな仕事も、限られた人に「届ける」営みである。

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