今年は天変地異がいつもより頻繁に起こっているような気がする。
どこかで地震が起こったとおもったら、違う街で記録的な大雨が降っていたり、
やっと大きな台風が去ったと思って後片付けしている間に、
九州の下の方から、また別の台風がやってきていたり。
なんだかいつもとは違う、不穏な日本列島。
元号が終わる年とは、そういうものなんだろうか。
最近は大きな災害がきても、簡単には停電しなくなった。
以前は、もっと簡単に住宅が停電して、
暗闇の中で晩ごはんを食べていた記憶があるけれど、
近頃は、そんな真っ暗な夜も、めったになくなった。
停電の夜、ロウソクの火で囲む食卓は、非日常感があふれていて興奮したのに、
最近は、電力の供給があまりにも安定的で、サプライズな夜がない。
そう思っていたら、今年は、いたるところで停電が起こっている。
サプライズがないなんて、不謹慎なこころの声が、誰かに聞こえたのかもしれない。
申し訳ない。
停電と同じように、近頃は、洪水もずいぶん減った。
以前は、大型台風が来るたびにまちに水が浸っていたような記憶があるけれど、
最近は、治水がうまくいっているのか、なかなか、まちが水びたしにならない。
子どもの頃、洪水でまちが水びたしになると、
家で飼っていたカブトムシを板っきれに乗せて、洪水の波でサーフィンさせていたのに、
最近は、治水技術があがったおかげで、カブトムシの波乗りを楽しむ機会もない。
そう思っていたら、今年は、いたるところで街が水浸しになっている。
カブトムシの波乗りができないなんて、不謹慎なこころの声が、誰かに聞こえたのかもしれない。
反省。
大きな災害は、簡単に人の命を奪う。
だから、人間は(特に災害の多い日本列島の住人は)、その対策に力を入れてきた。
しかし、災害の怖さは、災害を受けた人にしかわからない。
災害で被害をこうむったことのない人に、その本当の恐ろしさはわからない。
だからこそ、「予兆」として、「勉強」として、
災害によってもたらされる、ちょっとした被害ともいえない被害、
「不便」とか「迷惑」くらいの被害を、日常で受けておくことが大事なんじゃなかろうかとも思う。
事前に、ちょこちょこ、天災の不条理さを経験しておくことが、
いざというときに行動するための準備になるし、
普段、当たり前のように安定的に動いているテクノロジーや、
当たり前に可動しているシステムを盲信しないためのいい事前訓練になると思う。
パソコンで仕事しなきゃいけないのに停電で仕事ができないとか、
台風による浸水で、畳が数枚だめになったりとか、
大雪でスーパーにものが届かなくて、冷蔵庫のチーズかじってその日を過ごすしかないとか、
ちょっとした「不便」をこうむることで、
天災が、人間社会を超える力を持っていることを、人は再確認する。
それは、いくらテレビのニュースで他のまちの被害を聞いても伝わらない。
小さくても、実際に、被害を受けるしかないのだ。
そのために、平穏なまちを、年に一回、停電させたり、
ちょっとだけ、大雨の水を、止めないことは、必要なんじゃないと思ったりする。
大きな被害を出さないための、
人間社会を過信しないための、
準備として。
「天災は忘れた頃にやってくる」のだから、
大事なのは、忘れさせないことだろう。
他人に降り掛かった「ニュース」としてではなく。
自分の身におこった「経験」として。
コメント