ある先進的な保育園についての記事が、知り合いから送られてきた。
パラパラとそのインタビュー記事を読んでみたものの、
なんだかピンとこない。
話の流れがきれいすぎる。
それに、育児を社会問題として語りすぎるのも引っかかる。
「待機児童の問題」など育児にも社会問題の側面はあるのだが、
本来、育児は個人的な営みだ。
生まれてきた子どもも、子どもを育てる親も、
社会システムとは関係ないところで、個別に関係を作っていき、個別に育っていく。
家庭で子どもを見る余裕がなくなったことで保育園や幼稚園はできたのだが、
育児はもともと個人の営みであり、親族や地域を含めた世間の営みだったはずだ。
その「”世間”での営み」が、「”社会”が管轄する営み」に変わると、
人は、社会のルールや制度を変えることで、物事を改善しようとする。
しかし、本来プライベートな関わりあいで成り立っている育児や教育で、
いくらルールや制度をいじっても、問題の多くは解決できない。
学校の先生の数を増やしたり、効率的な相談窓口ができたからといって、
家に閉じこもっている子どもがすぐに外に出てくるわけではないし、
英才教育をほどこす幼稚園や、高い栄養価の食事を出す給食システムができたとしても、
それだけで健康で立派な子どもが育つわけではない。
社会制度や社会支援がどれほど完璧でも、
子どもはそれぞれのタイミングで成長し、
それぞのきっかけを待って飛躍する。
しかし、育児や教育を社会問題として論じる人は、
自分や子どもを完全に社会に組み込まれた存在として語り、
社会が無くても存在している、いのちある、一個体としての個人には目を向けない。
大人は「うまくいくこと」がとても好きなので、
そうした、社会で成功しやすい育児法のようなものに興味があるのだろうが、
子どもは、社会問題より身の回りの問題に興味があるので、
社会でうまくやるための話には大して反応しない。
子どもの判断基準は「楽しそうかどうか」であり、
大人のように、「うまくいくかどうか」「使えるかどうかか」ではない。
ただ、最近は、子どもが大人のような見方をしていると感じることもある。
高校生たちに、関心のある社会問題について調べて発表するよう課題を出すことがあるのだが、
保育や地域問題など、身近に感じているテーマを選ぶ子が多い中、
「年金問題」や「定年問題」をテーマに選ぶ子たちも、数人いる。
高校生が老後に年金をもらえるかどうか心配してどうすると思うが、
聞くと、50年後の自分の生活が安定しているかどうか、気になるらしい。
今から50年前に、ネットショッピングで買い物する未来や
マッチングアプリで結婚相手を探す未来を予想できた人はほとんどいないのだから、
いまから50年後の未来を予想しても無意味だ。
しかし、彼らは、漠とした不安の中、年金システムの仕組みを熱心に調べている。
また、自身の将来と関連づけて、
「医療問題」や「教育問題」をテーマに選ぶ子も多いのだが、
そのテーマが「地方医療格差問題」や「小学校のいじめ問題」ではなく、
「医者の労働環境問題」や「モンスターペアレント問題」だったりするのだ。
労働環境が悪化する地方病院やクレームに追われる教育現場など、
自分たちが将来、働くことを想定してそれらのテーマを選んだのだろうが、
テーマの目線が「大変な子どもや患者」ではなく、
「大変な教師や医者」であることに驚く。
教師や医者になる前の段階で、関心の対象が、
「子ども」や「患者」ではなく、「未来の自分」に向かっている。
それは「教育問題」や「医療問題」に関心があるというより、
自分に興味があるのだろう。
自分の心配をする前に、未来の子どもや病人の心配をしてほしいなと思う。
高校生の時点で、大人のように、
「楽しいかどうか」よりも「うまくいくかどうか」を気にしているなら、
年金や定年に関心があるのもわかる。
先行きの見えない未来は不安だろう。
しかし、誰にも未来はわからないのだ。
わからないものを不安に思うより、今を楽しんでほしい。
大人になったら、嫌でも「うまくいくかどうか」を気にせざるをえないのだから。