今西錦司の「生物社会の論理」をぺらぺらと読んでいた。
今西錦司が提唱した「すみ分け理論」は、
ダーウィンの「進化論」(特に「適者生存」)を否定する独自な理論だが、
話が面白すぎたのか、後に続く学者が少なかったようだ。
彼が提唱した「すみ分け」とか「個体ではなく、”種”での適応」とか、
この時代こそ、見直される考え方のような気がするけど、
それは人間社会から科学を、一方的に見ているだけだろうか。
「棲み分け」は、実社会でも大いに役に立つ概念だ。
夫婦でも友達でも仕事仲間でも、
棲み分けができているとケンカが起こらない。
恋人同士が、どちらもファッションに興味を持っていると、
意見がぶつかりあってしまうが、
どちらか片方が「ファッションなんてどうでもいい」と思っていれば、
ケンカは起こらない。
興味がないことには、相手の言うがままに従っていればいい。
ファッションは相手の分野。
そう認められれば、ケンカは起こらない。
ここは自分の守備範囲ではないと、相手に譲ることができれば、
棲み分けは、自然とできてくる。
たとえ恋人同士が、
どちらも、ファッションを自分の守備範囲だと思っている場合でも、
関係が深くなるにつれて、守備範囲が細かくなっていけば、
自然と、棲み分けはできてくる。
コーディネートについては自分の守備範囲だけど、
色のセンスは、あちらの方が上だなと。
棲み分けには、ある程度の時間も必要だったりする。
普段仲のいい高校生たちが、お互い、ふくれっ面で黙っている。
思春期の子どもたちは、生きてきた時間が短いので、
互いの守備範囲がかぶることが多い。
自分の守備範囲だと思っているところで他の人に口を挟まれると、
簡単に険悪な雰囲気になってしまう。
(子どもだから、簡単に、いい雰囲気に戻るんだけど)
相手を認めること、相手に屈することを負けだと思っていて、
自分の方が”より知ってる”と主張することで、優位にたとうとする。
そういう段階では、棲み分けには至らない。
棲み分けは、「ぼくらはみんなで生きている」という前提から始まる。
「ぼくらはみんなで生きている」が故に、
しょうがなく、棲み分けをし、棲み分けを経験することで、
棲み分けがいかに役立つかということに気づく。
「あぁ、張り合うより、棲み分けた方が何倍も楽!」だと。
「自分は相手よりも知識がある」と張り合うよりも、
相手を認めて、お互いの役割を分けた上で知識の持ち寄りあいをした方が、
よっぽど知識は増える。
そのためには、相手に譲ること、相手に屈することを知らなければいけない。
この子たちには、もう少し時間がかかるかもしれないけれど、
最近の高校生は普段から、
「ニコイチ」(「二人で一人」の意。仲がいい間柄の表現)という言葉も使っている。
「二人で一人」だと考えることができるなら、
「二人一緒に向上していく」という考え方もできるはずだ。
この世は必ずしも「適者生存」でもないし、「個体間の競争」だけでもない。
友達は、友達同士、一緒に良くなっていくのだ。
いいかげん仲直りしてくんないと、
用意した課題が無駄になるんだけどなぁ。
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