『トマトさん』田中清代・作
わからないことを人に聞けない若者
高校生たちと一緒に遠出をすると、引率者として彼らを目的地へ連れて行かなくてはいけないのだが、時に、高校生に引率を任せることがある。
「高槻駅まで」と目的地だけ言い渡して、乗り継ぎなどを考えてもらうのだが、見知らぬ駅で土地勘のない彼らは、集団で固まったまま、右往左往する。乗り換えのための掲示板をずっと見ていたかと思うと、当てずっぽうに、あっちのホームへフラフラ、こっちの乗り換え口にフラフラ。
駅員さんに聞けば早いのに、とこちらは思うが、彼らは、なかなか人に聞こうとしない。
若いうちは、人になにかを尋ねるのが億劫なものだ。
しかし、インターネットが普及して以降、さらに、人にものを尋ねることがなくなった。電車の乗り換えも、目的地への行き方も、現在の時刻でさえも、スマートフォンを持っているのが前提の世の中では、人に聞くのをはばかられる。スマートフォンでわかるなら、自分で調べればいい。
それがみんなの当たり前になると、人は、なかなか他人に頼らなくなる。
田中清代さん作の絵本『トマトさん』は、大きな赤いトマトが主人公の絵本で、長い間、子どもたちに親しまれている。図体の大きな主人公のトマトさんは、太陽が照りつけるある夏の日、ミニトマトや虫たちが、ドボンドボンと、気持ちよく小川に飛び込む中、一人(一個?)、日照りの道端に転がったまま動かない。
小川に向かう途中に通りがかったトカゲたちが、「トマトさんは泳がないの?」と話しかけるが、一人では動けないトマトさんは、川遊びになんか興味ないと、意地を張る。
川の中でプカプカ泳いでいる、瑞々しいミニトマトたちとは対象的に、強い太陽の下、じりじりと皮を灼かれていくトマトさんは、惨めに道端に転がったまま。
その惨めさと炎天下の暑さに、ついに耐えきれなくなったトマトさんは、「わたしも泳ぎにいきたいよぅ」と、甘い涙を流して泣く。その姿を見て、「(なんだ)、そうだったの」と、四方八方から昆虫たちが集まって来て、トマトさんを小川に運ぶために、みんなで転がし始める。
最終的に、小川まで転がしてもらったトマトさんだが、トマトさんにとって、図体がでかいことはコンプレックスだったのだろう。その負い目が、トマトさんに、意地を張らせてしまった。
しかし、周りの虫や爬虫類たちは、本人が思っているほど、そのことを気にしていなかった。
それどころか、トマトさんの訴えを聞いて、すぐさま虫たちが飛び出してきたところを見ると、皆、トマトさんが助けを求めるのを待っていたようにも見える。
「トマトさん、小川に入りたいんじゃないかなあ」「言ってくれれば、手伝うのにになあ」
そう思いながら、遠くから、見るでもなく、トマトさんの様子を伺っていたのかもしれない。
しかし、周りがそう思っていたとしても、トマトさん本人が直接助けを請わないと、周りはどうすることもできない。
それは人間社会も同じで、特に、現代社会は、資本主義や科学技術の進化によって、なんでも一人でこなせてしまう時代になった分、他人に対して、おせっかいをすることができづらい世の中になってしまった。