まず、オリエンテーションでは、コースの説明があり、
様々な禁止事項や確認事項を言い渡された。
それらのほとんどは想像していたルールとマナーだったが、
一番驚いたのは、10日間(厳密には9日と半日)、
「他の人と一切、コミュニケーションを取ってはいけない」ということだった。
「コース期間中しゃべれない」とは聞いていたが、
言葉を交わしてはいけないだけでなく、
目を合わせることも、お辞儀をすることも、
微笑むことも、体に触れることも禁止ということだった。
コースには、男女合わせて50名ほどが参加していたのだが(男女の生活圏は別)、
皆が同じ時間に行動していたとしても、
常に、一人で修行しているかのように行動しろ、とも言われた。
それを聞いて、もし、誰かのズボンに味噌汁を間違ってかけてしまったり、
相手の背中に蜘蛛が這っていた場合はどうすればいいのだろうと思ったが、
どんなことがあっても、人とコミュニケーションを取らないという、
「聖なる沈黙」は、絶対に守られなければならないということだった。
コースが始まり、同じ部屋には何人もの人が一緒に寝ることになっていたが、
誰も何も話さず、視線を落として、目を合わせずに寝る支度をしていた。
「聖なる沈黙」
皆でご飯を食べていても無言。
皆が休み時間に外を散歩していても無言。
皆で鏡に向かって歯磨きしていても無言。
その異様な光景は日を重ねるにつれ、当たり前になるのだけれど、
たまに、遠くに、クロネコヤマトのお兄さんが荷物を届けにきたりするのが見えると、
外から見るだけの人には、どう見ても僕らは異様に見えるよな、
十数人の男たちが、無言でぐるぐる庭を散歩していたら、
変な宗教じゃなくても、変な宗教だと思っちゃうかもなぁと
無駄に心配した。
ただ、10日間なにもしゃべらないという無言生活は一見、苦痛かと思いきや、
とても楽な日々だった。
人のことを気にしなくていいというのが、こんなにも楽だったとは、新たな発見。
日本はとかく人のことを気にする社会なので、
必要以上に、気を使って過ごしている。
これまで僕は、人の顔色を伺ったり、
自分が人からどう思われているか考えることが、
無駄なストレスを生んでいる原因だと思っていたが、
そうではなく、ストレスを生んでいるのは、
「他人の顔色をうかがうこと」よりも、
「人が思っていることをこちらに表現されるかもしれないと思うこと」なのだとわかった。
つまりは、「人に悪く”思われること”」ではなく、
「人に悪く”言われるかもしれないこと”」がストレスなのだ。
施設での生活中、コースの参加者は、「聖なる沈黙」を守って、視線を落としてはいるが、
いろんな他人の行動を目に映している。
口はつぐんでいても、頭の中で独り言は続いており、
「あいつ、ずっと寝てんじゃん」とか
「あいつ、変なストレッチしてんなあ」とか
「あいつ、バナナ2本取ってるやんけ」とか
こころの中でのおしゃべりは続いている。
しかし、それを表現することは、
「聖なる沈黙」の掟によって禁止されている。
面と向かってなにかを言われたり、
誰かに陰口を叩かれる心配がないということは、すごく楽なことで、
それがないとわかれば、
どれだけ他人が、心の中で自分を悪く思っていたとしても、何も問題は感じない。
それは、「奴隷制度」と似たようなもので、
奴隷が心の中で、主人に対して憎悪を持っているとしても、
それを奴隷が表現できないと主人が思っている限り、主人はなんのストレスも感じない。
人は、どう思われるかではなく、どう言われるか、
「思考」ではなく「行動」のほうに恐怖し、ストレスを感じているらしいのだ。
思うのだが、日本の社会は、
この「聖なる沈黙」制度を月イチででも、導入したら、どうだろう。
日本人が日々感じているストレスが、ぐっと減るのかもしれない。
「プレミアムフライデー」や「ノーマイカーデー」を推し進めたように、
「聖なる沈黙の日(ホーリーサイレンスデー)」を月イチで取り入れたら、
その日は、ぐっと、日本中が、静かで、安らかな日になるでしょう。
仕事効率は確実に、ぐっと落ちると思いますが、
皆のこころは、ぐっと落ち着くことでしょう。