「聖なる沈黙」と同時に、
参加者は、コースを始める前に5つの戒律を守ることを言い渡された。
1 いかなる生き物も殺さない
2 盗みを働かない
3 いかなる性行為も行わない
4 嘘をつかない
5 酒や麻薬などを摂取しない
どれも普段の生活では難しい戒律だが、
この山の中の缶詰生活の中では、難なく守れそうな5ヶ条だ。
1は、蚊が出る季節でもないから、大丈夫だろう。
2は、モノを売っている人がいないから、大丈夫だろう。
3は、女性との接触機会がないから、大丈夫だろう。
4は、「聖なる沈黙」があるから、大丈夫だろう。
5は、酒や麻薬が手に入らないから大丈夫だろう。
この他にも、「他宗教の祈りや儀式をしないこと」や
「読書や筆記をしないこと」など、守るべき戒律を言い渡された。
瞑想生活を始めた当初は、
このくらいだったら10日間は問題ないだろうと思っていたのだが、
一日、また一日と過ごしていると、
ふと、これらの戒律、ちゃんと守れてんのかなぁと、思えてくる。
例えば、食事の際、手を合わせて言う「いただきます」。
これは、「宗教的儀式」ではないのか。
他にも、夜、星に向かって「明日、天気になりますように」と願う。
(山の中なので、日中晴れないと、洗濯物が乾かない)
これは、「宗教的な祈り」には当たらないのか。
戒律の1ヶ条目にしても、
人は歩くだけで、なんらかの虫を殺生している。
昼休みの散歩中、足元のアリもミミズもダンゴムシも踏み殺している可能性があるが、
これは「殺生」には当たらないのだろうか。
そもそも、どこからが「殺生」なのか。
単細胞生物は?寄生虫は?菌は?
ぼくたちは、生きているだけでなんらかの生き物を殺している。
逆に、ぼくらの体内にいる菌たちは、ぼくらが生きていることで生かされている。
同じように、ぼくらもなにかの(体)内にいることで、生かされいている。
「殺生」とはなんのことか。
その線引きが、よくわからなくなる。
そういった、どこからが違反でどこまでが遵守なのかよくわからない戒律もあるが、
4ヶ条目「嘘をつかない」
これだけは、「聖なる沈黙」を守っている限り、守っていられる、安心条項だ。
言葉を発さない限り、嘘はつくことができない。
4ヵ条目は、問題ない。
そうたかをくくっていた矢先、
安全パイだと思われた4ヶ条にも、魔の手が忍び寄ってきた。
コース4日目の夜、講話の時間に、急に背中に悪寒がし、
僕は他の人がいる場所を離れてベッドに横になっていたのだが、
それを見たスタッフの人が追いかけてきて、話しかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫です(スタッフとは必要があれば話してもいいのだ)」
「具合悪いんですか?」
「あぁ、ちょっと、講話のテープ聞いていたら、気持ち悪くなっちゃって」
「講話を聞いてて?」
「あぁ、僕、昔から耳が弱くて、
多分、瞑想で感覚が敏感になってたから、講話の声の刺激に耐えきれなくなったんだと思います」
そう説明したのは、
スタッフの人に、講話の内容に問題があるのではない、と言いたかったからだ。
原因は、講話の内容ではなく、ぼくの耳が弱いこと。
そう言うことで、問題をそらそうとした。
なぜなら、僕は講話を聞いているあいだじゅう、
こころの中で、講話の内容に文句をつけていたからだ。
「なにその話」
「言ってることおかしいし」
「さっきの話と矛盾しとるやん」
しかし、そんな反発心を悟られるわけにはいかない。
「講話の内容に心から賛同していない者は、耳の痛みとして症状が現れる」
そう、瞑想の指導書に書いてあったら終わりだ。
強制退去させられるかもしれない。
そう思った僕は、「講話はちゃんと聞いてます」と言いたいがために、
とっさに、「僕、昔から耳が弱くて」と言った。
でも、いままで一度も、自分の耳が弱いなんて思ったことがない。
とっさに本心を隠そうとして突いて出た言葉。
これは・・・、もしかすると、う、うそ、なのかな。
(ただ、人より耳が聞こえづらいなと思ったことはあるので、嘘ではないかもしれない)
「人は、息を吐くように嘘をつく」と最初に言ったのは誰だろう。
「聖なる沈黙」の掟に従って、この4日間で、三言くらいしか口に出していないはずなのに、
その三言の中に、すでに、嘘に近い言葉が混ざってしまった。
愚か者め。
人は、息と同時に嘘を吐く。
4つ目の戒律。
「嘘をつかない」
これを人に守らせるには、完全に黙らせるしか、方法はないのだろう。