この瞑想コースを運営している団体は、ミャンマー発の仏教団体で、
世界180カ国に、
このような10日間コースを開くための施設を有しているらしい。
ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)が悟りを開いた際に用いた瞑想法を皆に教えるという目的で、
各施設には、団体本部から認定を受けた指導者がおり、
各コースをオーガナイズしている。
だが、指導者とはいっても、
参加者の瞑想の進み具合を確認するためにアドバイスをくれるくらいの役割で、
積極的に、瞑想の背景にある、理論や考え方を教えてくるというわけではない。
具体的に瞑想の指導をしてくれるのは、
瞑想中や講話中流れる「録音テープ」の中の人で、
団体の創始者が録音した「音源」が、世界中で、参加者に瞑想を教えているのだ。
つまりは、予備校のサテライト教室みたいなもので、
世界中(日本中)の生徒が、同じ音源(ビデオ)を見て、学ぶ。
その音源さえあれば、世界中に散らばる各施設に必要な人材は、
その教えを理解し、補助してくれる、アシスタントだけでいい。
教育界では、サテライト教室や教育アプリ、インターネット上の無料公開授業など、
それぞれの教室で各先生が教えるのでなく、
一人の先生が数多くの生徒を教えるような状況になってきているが、
宗教の世界でも、サテライトで成り立っちゃうんだな、と
嬉しいような、悲しいような気持ちでテープに耳を傾ける。
アシスタント指導者は、積極的な指導はせず、
数日ごとに参加者一人ひとりに対して、瞑想の進度を確認する。
確認するのは、「録音テープ」で聞いた瞑想の方法がきちんとできているかどうか。
それ以外は、なにも言わない。確認しない。
しかし、10日間缶詰めになるような”がっつり瞑想コース”には、
精神的な出口を求めてやってくる人たちも多いようで、
指導者に、精神的なイメージを求める参加者もいる。
しかし、アシスタント指導者は、そういう人たちを相手にしない。
あくまでアシストするのは、瞑想の進度の確認だけで、
段階的な感覚の感じ方の確認や、基本的な考え方のアドバイスのみ。
「からだにどんな感覚を感じていますか?」
そうアシスタント指導者は一人ひとりに聞く。
そこで、参加者は、その答えとともに、
「自分のやり方合っているのかな?」と瞑想中、不安に思っている疑問をぶつけたりもするのだが、
基本的にアシスタント指導者は、そういう質問には深く答えてはくれない。
そこで求められているのは、「できているか」「できていないか」だけ。
さらにいうと、「できていない」としても、
人はそれぞれに進み具合が違うのだから、
それはゆっくりではあっても「できている」ようなもの。
つまりは、みんな、「できている」。
だから、参加者一人ひとりとアシスタント指導者との会話はほとんど同じで、
「どんな感覚を感じられていますか?」
「チクチクするような(〇〇するような)感覚があります」
「そうですか。では、それを続けてください」
それで、終わる。
時に、参加者が「どんな感覚を感じていますか?」の質問に対して、
「海の中に浮いているプランクトンのような感覚があります」
とイメージで返しても、
「いや、比喩ではなく具体的な感覚を言ってください」
と、冷たく返される。
瞑想という言葉に憧れが強い参加者などは、執拗に
「瞑想していると、急に強いひかりが見えるのですが」
と、光を強調するのだが、
「いや、光はどうでもいいので、からだの感覚を教えてください」と、
指導者は、相手にしない。
アシスタント指導者の役割は、
「神秘体験への誘導」ではなく「方法の確認」なのだ。
そのドライな姿勢は、
「六道」や「輪廻」すら信じていないのに、
法事の時だけ、したり顔で法について説教してくる日本の坊さんたちに比べると、
よほど好感が持てる。
悟りから程遠い坊さんが、
まるで悟ったかのような顔をして人々に説教しなければいけない立場よりも、
「悟りにより近いのは”テープの中の人”であって、
自分はただ技術的なアシストをするだけなのだ」とするアシスタント指導者の立場は、
明確で、信頼が置ける。
そう思うと、日本の法事や葬式の際の坊さんの説教も、
別に、「録音テープ」でいいように思える。
別に坊さんの肉声が聞きたいわけではないし、
法事に集まった人も、普段から俗に浸っている近所の坊さんよりも、
本当に立派に生きた坊さんの話を聞きたいと思うんじゃないのかな。
ただ、予備校のサテライト教室と同じように、
目の前の先生がただのアシスタントだとわかった場合、
生徒のモチベーションが持続しないという問題もある。
人は何かを学ぶ際、先導してくれる人を必要とするが、
その人に、少なからず、尊敬や憧れがなくては、学びは持続しない。
たとえその人に欠点が多くあったとしても、
その人に対する尊敬の念が少しでもあれば、学びは持続する。
しかし、「アシスタント」はどこまでいってもアシスタント。
「師」や「先生」ではなく、「アシスタント」という位置づけが、
その人への尊敬の念を消失させる。
教育界は「ティーチングからコーチング」へと言われ、
先生は「生徒に知識を教える」ことから「すでにある知識をもとに、生徒を導く」ことに
役割がシフトしていくと言われている。
これだけ、情報が簡単に得られる社会になると、
その役割の変化は仕方ないと思うが、
「コーチング」は、これまで学びをドライブさせてきた「憧れ」や「尊敬」を否定する。
人は、情報があるから学ぶわけではなく、
まだここにない何かを求めることで、学び続ける場合が多い。
「悟り」へ至る技術が(情報として)目の前にあるからといって、
人は悟ろうとするわけではない。
「ゴータマ・ブッダこそが尊敬の対象なのです」と言われても、
歴史上5本の指に入りそうな賢者を凡人たちが憧れ続けることは難しい。
ゴータマは、凡人には、遠すぎる。
以前、テレビで、タレントの石原良純の少年時代の再現VTRを目にした時、
家においてある家具の違いだけで、自分と石原良純の間にある遠い距離をまざまざと感させられたのに、
ゴータマなんて、インド北部の豪族の王子として生まれた人だ。
明らかに、自分とは違う。
自分と石原良純の間にある違いよりも、
石原良純とゴータマとの間にある違いの方が、はるかに大きい。
あまりに遠い人には人はついていけない。
徹底して「技術」や「方法」だけを教えるアシスタント指導者システムは、
合理的だと思うし、現代人に合っているやり方だと思う。
ただ、人は、目の前にあるものに大きく影響される。
「聖なる沈黙」によって、目線は落ちていても、
視界に入るアシスタント指導者や古参の参加者の佇まいを見て、
様々なことを参加者は感じる。
視界に入る、アシスタント指導者の佇まいにただならぬものを感じたら、
新人の参加者は、自分もそこまで行けるかもしれないとやる気を出すだろうし、
何度も参加している古参の参加者が、瞑想中、女性の方をちらちら見ていれば、
新人の参加者は、その学習システム自体に対する信頼感を失うだろう。
時代とともに、指導の仕方は変わっていっても、
目の前にいる人から多くの影響を受けることに変わりはない。
「ティーチングからコーチングへ」という指導の流れとその問題点は、
教育界だけでなく、すべての世界で問題となっているようだ。