「私淑」という言葉がある。
著作などを通して、会ったこともない人のことを、師と慕うことをいう。
いい考え方だなと思う。
人が先生になるのは、「生徒」がその人を「先生」だと思うことから始まるわけで、
例え会ったことがなくても、同時代に生きていないとしても、
本や作品から、誰かを「先生」と慕うことは十分、できる。
むしろ、現実の先生の嫌な生活態度や、変なビジュアルが目に入ってこない分、
「先生」の伝えたいことが伝わるってこともあるだろう。
ただ、「私淑」の場合、心の中でしか「先生」との質疑応答ができず、
間違った「読み」をしている場合も多々あるし、
「先生」側からしたら、
「お前を生徒にとった覚えはない」と言われることもあるだろうけど、
現実に触れ合える「先生-生徒」の関係でも、
「先生」を間違った解釈で見ている生徒はいるし、
「こんな生徒に育てた覚えはない」と思いたい先生は、たくさんいる。
現実に触れ合っているからといって、
最高の「先生-生徒」関係が育れるわけではない。
会ったことがあろうがなかろうが、
「この人は自分の先生だ」と思えば、その人が「先生」になり、
本や映像を通じて、その著者を「先生」だと認めれば、
その瞬間から、あなたは、その人の「生徒」なのだ。
小泉純一郎に会ったことがなくても、小泉純一郎を先生だと思えば、
今日からあなたは「小泉チルドレン」だし、
イビチャ・オシムに会ったことがなくても、イビチャ・オシムを先生だと思えば、
今日からあなたは「オシムチルドレン」なのだ。
昨日、高校の校内で、以前話したことのある生徒にばったり会ったが、
名前を思い出そうとしても、なかなか思い出せない。
どうしても出てこないので、そういう時は、しょうがなく、あの手を使ってみる。
「あー、君、名前なんだったけ?」
「田中です」
「いや、上の名前は知ってるよ、この前聞いたんだから。下の名前だよ」
「あ、下ですか・・・。太郎です」
「あぁ、太郎だ、太郎。そうだった。君は、田中太郎だったね」
もちろん、「田中」も「太郎」も覚えていない。
名字も名前もすっかり忘れていたが、
この方法を使えば、相手を傷つけずに、名前を聞き出せる。
そう、これは、無数の人が陳情にやってきて、
無数の人の名前を覚えなくてはならなかった政治家・田中角栄がよく使っていたやり方。
田中角栄には会ったこともないが、
僕は、時々、この方法を使わせてもらっている。
そう、この時、僕は、立派な「角栄チルドレン」なのだ。
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