秘密の部屋

埼玉県に笠原小学校という小学校がある。
校舎の作りが独特なことで知られる小学校で、名護市庁舎などを手がけた象設計事務所が設計を担当している。
この小学校にはいたるところに「死角」があり、子どもたちが大人の視線から隠れられるような、入り組んだ場所がいくつもある。
こうしたデザインの校舎を今の法律や今の社会下で作ることができるかどうかはわからないが、大人が子どもに積極的に隠れる場所を与えるのは、現在では、なかなか勇気の要ることになってきた。

オランダの教育学者、ランゲフェルトの主要な著作の1つに「Secret Place(秘密の場所)」という論文がある。
この本の中でランゲフェルトは、子どもにとって、屋根裏部屋やクローゼットのような「秘密の場所」がいかに重要かを語っている。
子どもは「秘密の場所」で創造性を伸ばし、自分の内なる世界を広げ、客観的で合理的な大人の世界とは異なる世界を広げていく。

そうしたイメージは、それこそ児童作品やファンタジー作品において何度も繰り返されてきたモチーフである。
「異世界」への入り口は、大人が見つけられない場所にあり、大人の目から逃れた場所にある。
「ネバーエンディングストーリー」では、その入口はワードローブの中であり、「トム真夜中の庭」では中庭であり、「飛ぶ教室」では、学校裏の空き地であった。
その点、現代のファンタジー作品の金字塔である「ハリーポッター」では、異世界への入口が駅のプラットホームという、大人の目につきやすい場所であり、これまでの児童作品とは異なる視点で作られているようでもある。

ただ、ランゲフェルトは、そうした「秘密の場所」と童話や児童文学のようなファンタジー作品との間に違いがあることを指摘する。
ファンタジーが既に物語として組織化されており、登場する人物や物の役割が既に決められているのに対して、「秘密の場所」では、それらを全て自分の思いのままに操ることができるという。
例えば「秘密の部屋」では、目の前の椅子がただの椅子ではなく、飛行機になり馬になりドラゴンになる。
大人にとってある用途を持つ物が、違う役割を持つ存在として、自由に動き回る。

確かに、ランゲフェルトのいうように、ファンタジー作品と「秘密の部屋」の間には違いがあるけれど、子どもにとって、 童話や絵本や児童書などのファンタジー作品と言うのは、大人が思う以上に、想像の余地があるものである。
彼らは、物語を読んだり聞いている最中にも、勝手に自分の中でそのイメージを広げ、読んだ後に、ファンタジー作品とは違うワールドを二次展開している。
そういう意味では、ファンタジー作品も「秘密の部屋」も、子どもが想像を巡らし、新たに創造できる場である。

それでもなお、創造のために「余白」が必要だとすれば、ファンタジー作品の中でも、童話や絵本や児童書と、アニメーションの間には大きな違いがあると言えるだろう。
アニメーションはすべてのイメージが既に組織化されており、大人が作った意味や役割を子たちに与えてしまうが、絵本や児童書は、アニメのように動きですべてを伝えないため、そこに子どもが想像で補う余地がある。
スマートフォンやタブレットで手軽にアニメを子どもたちに見せることができる現代になっても、その手軽さが与える影響がどんなものかはよくわかっていない。

養老先生は歴史認識に関する「教科書問題」が社会問題化していた際、教科書よりもテレビのほうがよっぽど子どもに与える影響が大きいことを指摘し、大人は教科書の内容を喧々諤々言い争うよりも、テレビが与える影響のことについてしっかり調査したほうがいいと言っていた。
それは今でいうと、スマホやインターネットが子どもに与える影響のことだろう。
どんな影響があるかわからないものをとりあえず避けておくのも、大人の知恵の一つである。

大人は、先に生まれた者の役割の一つとして、子どもの世界に大人たちが勝手に介入してこないよう、物理的にも時間的にも精神的にも、子どもたちの「秘密の部屋」を確保してやり、その部屋の番人として、異世界の入り口に座って本でも読んでおくがよかろうと思う。

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