「聲の形」というマンガがある。
聴覚障害を扱ったマンガで、既に連載は終了しているが、
去年アニメ映画化され、手塚治虫文化賞を始めとする数々の賞を受賞している。
主人公は、小学生の頃、聴覚障害のある女の子をいじめてしまい、
そのことが原因でクラスからハブられてしまった男子高校生。
中学3年間、誰とも友達になれず、自分の殻に閉じこもってしまった主人公は、
高校生になり、再び彼女に会って関係を修復することで、
彼女だけでなく、周りの人たちとの関係も取り戻そうとする。
高校生になった主人公は、手話を覚えており、
彼女と手話でコミュニケーションを図るのだが、
彼女に会いに行く前に、既に手話を覚えているということに、
主人公の強い意思が感じられる。
僕らは普段、ほとんどの人と日本語で会話することができるので、
相手が外国人でもなければ、誰かのために新しく言葉を覚えようとはしないが、
もし、僕らがひとりひとり、違う言葉を話していたら、
僕らは、人を見て、新しい言葉を覚えたことだろうと思う。
あの子としゃべりたいから、”あの子の”言葉を覚える。
あの人と仲良くなりたいから、”あの人の”言葉を覚える。
一人のクラスメイトとやり直したい一心で手話を覚えた主人公を見て、
誰かと話したいというのは、
言葉を覚える上で、明確な動機だなと感じる。
僕らは、日本語を話すことで、
この国のほとんどの人たちと会話することができるけど、
ほんとうに相手を理解したり、分かりあうためには、
一人ひとりに向けた、”違う”言葉を話さなければならないともいえる。
同じ日本語でも、人によって、
概念だけで話したい人もいれば、感情をぶつけあいたいだけの人もいる。
その場のノリだけで話を進めたい人や、
事実や数字で話を進めたい人、
楽観的な言葉だけ聞いていたい人や、
日常の小さなできごとの話だけしていたい人もいる。
みんな、同じ日本語を話していても、
一人ひとり、話したい日本語の内容や、
話してほしい日本語の形式は、違う。
相手を理解しようと思い、仲良くなりたいと思う時、
僕らは、相手に合わせて、
どういう日本語を、どのように使うかを考えている。
考えているというか、考えたり、感じたりしている。
母親と赤ん坊の鼓動がだんだん同期していくように、
なにも考えなくても、
自然と相手と、言葉の波長が合っていくこともあるし、
意識的に相手と同じワードを使い、同じ角度でしゃべることで、
だんだん言葉の波長が合ってくることもある。
相手を理解するために、相手の言葉を覚える。
その時、相手が話す言葉は、手話ほど”遠い”言葉ではないけれど、
自分が普段、話している言葉とは違った言葉だ。
そして、相手に届く言葉を話そうとすることは、
それだけで、「相手を分かりたい」という強い意思の表明。
大事なのは、意思。
そして、その意思の表明だ。
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