袖すり合うも多生の縁

電車に乗っていると靴を脱ぎたくなる。
満員電車ではさすがに脱がないが、
4人席では必ず脱ぐ。
昔の人は、電車に乗ると、靴下まで脱いでいたらしい。
電車が家や旅館みたいなものだったのだろう。
まだ電車がすし詰め通勤に使われていなかった牧歌的な時代の話。

電車の乗り方には、通勤・通学で使われている日常使いと、
行楽に出かけるための、娯楽目的がある。
現在は、通勤・通学で電車を利用する人が圧倒的に多いので、
電車の中のマナーもうるさくいわれているが、
それは、通勤・通学で利用する電車だから必要なマナーであって、
利用方法が変われば、マナーのあり方も変わる。

電車の中でご飯を食べてはいけないのも、
携帯電話で話してはいけないのも、
通勤・通学で皆がピリピリしているからであって、
みんなが修学旅行に行く際に乗る貸し切り電車の中では、
お菓子をみんなで楽しく食べることも、大きな声で馬鹿笑いすることも可能だし、
焼きそばの匂いが車内に充満したって、
「おお、ブレネリ」の合唱がいきなり始まったって、
旅行で楽しい気分になっている乗客にとっては、なんの問題もない。

日本では、周囲を気にしながら生きるように教えられるので、
他の人がどう思うかを確認しながら自分の行動を決めなければいけない。
お弁当を食べようとして、
「臭うかも」「もしかしたら臭わないかも」だったら、
「臭わない方」。
友人と話そうとして、
「うるさいかも」「でも、うるさくないかも」だったら、
「うるさくない方」を選ぶことになっている。
そうやって、皆が他人に配慮していくうちに、
今や、日本の電車やバスの中は、異様な静けさが支配し、
ちょっとでも携帯電話で話しているだけでも、
イライラした気配が、車内に充満する。
ケイタイで話すことはマナー違反かもしれないが、
どうしても取らなければいけない電話だってあるだろう。
「何か、緊急の用事があるんだろな」くらいの
他人に対する余裕が、この社会からは欠けている。

まだウォークマンがなく、ラジカセを担いでいた時代の日本の若者は、
自分たちが担いできたラジカセの音楽を車内でかけて、みんなに聴かせていたという。
そんな、勝手に「車内DJ」を始めるような人たちは、
今ならただの危ない人か、迷惑なユーチューバーでしかないが、
まだ、音楽を個人で楽しむものじゃなかった頃、
他人のラジカセから流れてくる音楽は、
音楽室から流れてくるピアノの旋律のように、
日常にふと流れてくる音であって、皆、自然にその音を楽しめたのだろう。

アメリカやヨーロッパでは、
電車の中で、バイオリンやギターの生演奏をして、乗客を楽しませるような人たちがいる。
アメリカも日本ほどではないにしろ、
平日は、通勤で電車を利用している人も多いが、
ほとんどの人は、車内で奏でられる楽器演奏を、静かに楽しんでいる。
日本だったら、「演奏を聞きたくない人もいるから」という理由で、
そんな演奏は許可されないだろうが、
欧米人からすると、心地よい音楽も楽しめないような日本の車内マナーは、
神経質しぎると思うのかもしれない。

日本人が公共空間でのマナーに敏感になりすぎているのは、
たぶん、音や匂いが世間から消えたからだ。
以前は、もっと世間や車内に、いろんな匂いが漂っていて、
いろんな音が聞こえていたのだ。

日本に観光に来て、電車に乗る中国人たちが、
イヤホンもせずに、スマートフォンの音楽を大きな音で聞いていたりするのは、
彼らのマナーが悪いというよりも、
彼らが母国で、毎日、音の多い、うるさい街で生きているからだ。
うるさい街では、周りもうるさいのだから、私もうるさくていいと考える。
みんな、それぞれの音を出せばいい、と。
しかし、日本では、それぞれが音を出すのではなく、
それぞれが音を出さないことをマナーとする。
日本では、互いに配慮しあって、適切なボーダーラインを踏まないのがマナーだが、
多くの外国では、互いにボーダーラインを踏み合っても、
お互いがボーダーラインを踏んでいるのだから、マナーは成立する。

それは、コミュニケーションのとり方でも同じことで、
互いに相手を気遣い、言いたいことを言わないことで
「よい関係」を築けると思っている日本人に対して、
互いにずけずけと言いたいことを言うことでしか「よい関係」は築けないと、
考える、多くの外国人との違いは大きい。
多くの外国人と関わることになるこれからの時代においては、
この違いを、しっかりと考えていかなくてはならない。

ただ、この国には、「袖擦れ合うも多生の縁」という言い方があるように、
「袖が当たるくらいの人とは、縁があるものだ」と考える。
国土の狭いこの国では、みなが袖を擦れあわせながら、
互いに近い距離で生きてきたわけで、
ボーダーラインを踏まないことがマナーだからといって、
電車で隣になった人を「他者」とみなして遠ざけ、
袖が擦れないように、袖を捲くるのではなく、
袖が擦れあっても、
「まあ、それも縁」と思えるくらいのおおらかさを持つ社会にした方が、
これからの「国際化社会」にしても「ストレス社会」にしても、
適した方向なのは間違いない。
すでに袖を擦り合わせる必要のなくなった「個人社会」で、
どうおおらかさを持たせるかは、まだわかりませんが。

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