名字が訓読みである。
「向島(むこうじま)」とか「灯沢(あかりさわ)」みたいな訓読みの名字でこれまで生きてきたので、初めて会った人にはしばしば読み方を間違えられる。
「向島(こうしま)さん」とか「灯沢(とうさわ)さん」とか、(一部)音読みでトライされて、不正解ということが多い。
そこで本当の読み方である「正解」を伝えると、その人たちは、
「あぁ、そっちでよかったんですか」みたいな、
敢えて「音読み」で行ったのに、「訓読み」なら最初から読めましたけどね、みたいな雰囲気の顔をする。
口ではなにも言わないが。
しかしながら、名字は、訓読みのほうが一般的である。
日本の名字のほとんどは訓読みで読むらしく、音読みは「加藤」「伊藤」など一部に限られているらしい。
それなのに、会う人会う、常に僕の名字を「音読み」でトライしてくるのは、もしかしたら、「音読み」でトライして間違えるよりも、「訓読み」でトライして間違えるほうが恥ずかしいからではないだろうかと考えるようになった。
たとえば、「目頭(めがしら)」を「もくとう」と読み間違えても、そこまで恥ずかしくないが、
「筆頭(ひっとう)」を「ふでがしら」と読んでしまったら、なんだか恥ずかしい。
「目頭(めがしら)」を「もくとう」と読んでも、そんなに気にならないが、
「鎖国(さこく)」を「くさりぐに」と読めば、なんで、わざわざそんな読み方をしたのだろうと訝しむ。
名字はほとんどが訓読みであるにもかかわらず、「訓読み」でトライすると、間違えた時にダメージが大きい。
その理由は、もしかしたら、日本古来の読み方である「訓読み」に対して、中華大陸の音であった「音読み」で読むほうが、シュッとした感じを受けるという理由かもしれない。
「背広」より「スーツ」、「帳面」より「ノート」、「台所」より「キッチン」がシュッとしているように、
日本人にとって、外来語は洗練されたイメージを持つ。
もし、中華大陸で一般的な「音読み」の言葉を、大和国方式の「訓読み」で読んで間違えた日には、顔から火が出るかもしれない。
ここは黙って「音読み」で無難にトライ。
そういう心理が、ここ千数百年の、この国の「石橋を渡る感覚」として、世代を超えて伝わっているのかもしれない。
だから、その石橋を叩かずに、一発目から「訓読み」でトライしてきた人には敬意を払うべきであろう。
先進的な大陸文化にも負けず、よくぞトライしたと。