講演会

ある高校で、ある講演会が開催されていた。
そこは、ある行儀のよい学校だったので、生徒の多くはメモを取りながら、その講演者の話を聞いていた。
その聞き方は、普段から習慣づけられているようで、メモとペンを膝に置き、時折、ペンを走らせる姿から、こなれた感じが伝わってきた。
話をしっかりと記録しているので、講演会後の質疑応答ではよく質問が出ていたし、感想を書くシートにも多くの文字が並べられていた。

それはとても真面目で、講演者に失礼のない態度だったのだけど、でも、やっぱりメモなんか取らなくていいのになと思って彼らを見ていた。
というか、メモなんかとってちゃダメだよな、と思った。

メモを取るということは、聞いている内容を「情報」として認識しているということである。
人がメモするのは、それが、忘れちゃいけない「情報」だからである。
もし、妻がその日にあったことを食卓で話している時に、夫が妻の話の内容をメモするような人だとしたら、その夫婦生活は遠からず破綻するだろう。
妻が食卓で話す内容は、「情報」ではないし、「情報」として受け取ってはいけない。
話の内容はすぐに忘れてもいいが、話には「向き合って」いなければならず、話の内容は記録する必要がないが、話した事実は記憶していなければならない。

子どもたちが体育館でメモしていた講演会のタイトルは「戦争の記憶」であり、講演者は戦争の体験者であった。
戦争を体験した人たちが子どもに伝えたかったことは、戦争の「情報」ではなかっただろう。
戦争の情報は、本やインターネットの中で簡単に目にすることができるが、講演者が伝えたかった生々しい体験談は、耳と目を通して体全体で感じるしかない。
それが「向き合う」ということだろう。

不必要な量の情報が溢れかえる社会の中を生き抜くために、学校は「情報」を処理する方法を、先んじて子どもたちに教えようとするが、子どもたちが「かけがえのない存在」でいつづけるためには、「情報」にならない世界に触れ、自分自身を「情報」にしない世界で生きる必要があることを教える必要がある。
それは、ノートの「余白」部分であり、机の四隅であり、体育館の裏側であり、教室のカーテンの中であり、制服の裏ボタンであり、スカートのプリーツで感じることのできるような世界である。
講演会は、カリキュラムの中の「余白」に位置づけられるような催しなのだから、変に「情報」の世界に巻き込んで、メモなんか取らせないほうがよいと思うのだけどな。

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