仏教の世界には「輪廻転生」って考え方がある。
ぼくらは、この世で生まれては死んで、生まれては死んでを繰り返し、
そのサイクルから抜け出せないでいるらしいんだけれど、
そこからの「解脱」を目指すべきなのだよと、仏教は語りかけてくる。
今回の生が次回の生に影響し、
前回の生が、今回の生に影響するよという仏教は、
徳を積めば、次回はよりよい生に生まれるし、
悪事を働けば、次回は、フンコロガシみたいな虫に生まれてしまう可能性があるよと言う。
輪廻している限り、すべてはつながっている。
人間もフンコロガシもハシビロコウも、ひとつながり。
フンコロガシにもハシビロコウにも生まれる可能性があったのに、
人間に生まれたぼくらは、幸運なんだよと仏教が言うのは、
仏教では、「六道」という6つの世界がこの世にはあって、
「人間界」は、「畜生界」や「餓鬼界」や「修羅界」よりも、だいぶましだと思われているから。
人間に生まれたことは、とても恵まれたことなのだ、との仏教の教え。
人間ってことだけで、喜べ。
人間、バンザイ!
もし、仏教が言うように僕らがみな、「輪廻転生」してるとしたら、
みな、それぞれに違う前世があって、
たとえ、この世で同じくらいの歳を重ねているとしても、
それまでに前世で繰り返してきた生の回数は全然違う、ってことになる。
世間には、たまに、歳が若いのに、すごく老成している人や達観している人がいるけど、
そういう人たちは、それまで輪廻してきた回数が人よりも多いんだろうな。
輪廻を多く繰り返してきた人は、年齢にかかわらず、
感情をうまくコントロールできたり、この世のことが人よりもわかってしまう。
「輪廻転生」っていう言葉は、そうやって、
今、生きていることを前世と結びつけたり、
来世のために、今を頑張らせようとしてくる。
けれど、やっぱり、それって、なんだか、つまらないなぁとも思ったりする。
そもそも、輪廻の回数なんて、誰にもわからないし、
輪廻が、今生きている人生の言い訳になってしまうんじゃないかな。
あの人は、輪廻の回数が多いから達観してるんだとか、
私は、前回の生の行いが悪かったから、こんなに不幸なんだとか。
仏教って、輪廻転生を本気で言っているのかな。
お坊さんの口から聞いたことがないから、なんとも言えないけど、
方便として言っているだけのような気もする。
輪廻転生を繰り返せば繰り返すだけ、徳が高くなっていくってイメージも、
なんだか、抹香臭くて好きになれない。
説教の香りが、プンプン。
「輪廻転生」ってなんか臭うんだよなぁと思っていたら、
小説家の西加奈子さんが、TV番組で、明石家さんまさんに対して、こんなことを言っていた。
「さんまさんは、これまで何万回繰り返し生きていた”いのち”の最後なんです」
「さんまさんの中の”いのち”が 『最後やぞぉ!しゃべれしゃべれ!』
といって、しゃべらせてるんですよ」、と。
西さんが言うには、
”いのち”は何度も転生を繰り返して、何度も何度も生を繰り返した末に、
「もうこれで終わり」「これが最後の生」と、最後を迎える時があって、その最後がさんまさんなんだと。
”いのち”の最後のきらめき、輝きとして、盛大にさんまさんの中で、”いのち”は燃えている。
だから、「さんまさん、側は人間やけど、(中は)おっきいお祭り」なのだという。
「(さんまさんは)おっきいお祭り。ねぷたとかだんじりみたいな」
一般的な輪廻転生の教え方では、
「自分」が何度も生を繰り返してきたように説明するけれど、
西さんが言うように、たぶん、生を繰り返してきたのは、「自分」ではなく「いのち」の方で、
その「いのち」が、たまたま、「自分」を生きているのだ。
だから、最後の段階になった”いのち”は、さんまさんの中で、激しく燃える。
その考え方のいいところは、”いのち”の最後が、「まつり」であること。
仏教では、生を繰り返せば繰り返すほど、
人は徳が高くなり、偉くなっていく。
人間として、生を繰り返し、徳を重ねることで、上級なものになっていくけれど、
西さんの話では、”いのち”は、最後の段階でも、激しく燃えるだけ。
ほかの人より生を多く重ねることで、だんだん偉くなっていくんじゃなくて、
だんだん、祭りのように、全力で、燃えていくだけ。
そう考えると、それぞれの人が持つ、(もしくは、さんまさんみたいな人が持つ)
生き物としてのエネルギーや、年齢によらない高い能力や態度は、
「その人が前世で重ねてきた生の回数のせい」というより、
「その人を生きている”いのち”がこれまで重ねてきた生の回数のせい」ということになる。
であるなら、偉く立派なのは、その人ではなく、その”いのち”。
バカで未熟なのも、その人ではなく、その”いのち”の方ということになる。
それは、なんか、生きる上での気の持ちようが、気楽でいい。
たぶん、きちんとしたお坊さんにきけば、
輪廻転生の話も、「”いのち”の輪廻の話」といて説明してくれるのかもしれない。
さんまさんを「おっきいお祭り」と呼んだ西加奈子さんも、
「(さんまさんは)おっきいお祭り。もしくは、(一休さんみたいな)破戒僧」
と言っていた。
生を繰り返してきた”いのち”が、下へ下へ深く潜っていけば、
最後に、徳のある僧侶になるけど、
”いのち”が、外へ外へ激しく弾けていれば、
世間の常識を逸脱した破戒僧のような姿になるのかもしれない。
”いのち”にも、生き物のような、個性とか多様性があるのかな。
どちらにしても、自分の”いのち”がこれまでどんな生を経てきたのかは、
現世を生きている僕らには知る由もない。
僕らにできることは、”いのち”の声に耳を傾けることくらい。
自分の中の”いのち”と「自分」の調和を保つことくらい。
っていうと、じゃあ、その「自分」って誰ってことになるんだけどさ。
ほんと、よく、わかんないはなしだよね。
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