こどもたちになにかを教える時、
「近代教育」じゃない形ってのをいつも考えている。
僕は生徒とご飯を食べたり、自分の部屋をみせたりするが、
そういう部分は「近代教育」じゃないだろうなあと感じる。
「近代教育」では、
学ぶということが「知識の伝達」になっていて、
どの先生に習おうが、「正解」を知るためには誰でもいいとされる。
正解はすでに、教科書や参考書の中にあるもので、
魚の食べ方のきれいな先生に教わっても、
部屋の汚い先生に教わっても、
教科書の正解が変わるわけではないという前提。
いい先生かどうかの判断は、教え方がうまいかどうかだけなのだ。
しかし、近代以前、教わるというのは、
「先生から知識を伝えてもらう」ことではなく、
「先生を見てとる」ということだった。
職人の世界に「見て盗む」ということがぎりぎり残っているように、
先生は教えてくれる人ではなく、見ておくべき人で、
教わる人は、先生の一挙手一投足を見て、
何か学ぶべきことがあるはずだと思いながら、真似た。
その時、彼らは、先生「全体」から学ぼうとしていた。
学校でも塾でも、教科書の中の知識は細切れになっていて、
全体をうまくつかむことはできない。
単元ごとに別れた学習は、効率のいい学び方ではあるのだけれど、
それは、スポーツでいうと、
ドリブルやパスの練習を延々とやっているようなもの。
どれだけ練習だけを積んでもわからないことがそこにはあり、
試合でしか学べないこと、
さらにいえば、大きな大会でしか経験できないことってのがある。
どれだけドリブルやパスがうまくなったとしても、
前後半合わせた40分の試合を通して勝てるチームにならないと、
強くなったとはいえない。
ずっとドリブルばかりしててもしょうがないように、
ずっと細切れになった知識だけを溜め込んでも、しょうがない。
細切れになっていない「全体」としての知識は、
「人」という形で現れているのだから、
もっと人を見て学ぶということを思い出さなくてはいけない。
「人から学ぶ」というのは、「全体から学ぶ」ということ。
部分ではなく総体としての人間をみることで、
知識の現れ方や知識の使い方が見えてくる。
普段、教壇で教えている人が、
魚を食べている時、本を読んでる時、ぼんやりしている時、
その姿を見ることで、気づくことがたくさんある。
僕の生活を見ていれば、そこには盗むべき多くの優れた点がある
なんてことは、酒に酔ってても言えないし、
真似してほしくない部分がほとんどだが、
人間を見て学ぶという方法がきちんと身についていれば、
今後、大学や社会に出て、
本当に真似るべき先生を見つけた時に、
その人から学ぶことができる。
大切なのは、対象がなんであれ、方法が身についているということ。
方法が身についてさえいれば、この先、どうにだってやっていける。
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