「おっぱいが重力に負けてきた」という話を女友達から聞く。
体が重力に負けるというのは「衰え」の表現の一つなのだろうが、そういうことを男より女から聞くことのほうが多いように思うのは、女性の方が体に対する意識が強いからだろうか。
ただ、本当に、「おっぱい」は重力に「負ける」のだろうか。
例えば、山というのが、谷や盆地と別のものとしてこの世に屹立しているわけではなく、地球が上に上に向かって勃興している途中の状態、つまり、「地球の盛り上がり」としての山と見ることもできるように、身体が下に下に落ちていくという現象も、身体が大地(地球)に戻ろう戻ろうとしているプロセスの一つと見ることができる。
個々の生き物としてはそれを「衰え」と見ることもできるし、確かにそれは、子供の身長が天に向かって毎年伸びていく「前半」のプロセスに比べると、重力に「負けていく」時期であり、人生の「後半」の出来事であることは確かだろう。
ただ、星は滅び際が一番輝いていたり、柿は熟柿が一番おいしかったり、どの段階がその生き物のピークなのかは誰にもわからない。
今、窓の外では雨が新緑を濡らしている。
新緑はさすがに「新緑」なだけあって、雨に濡れても、一向に悲しげな表情を見せない。
人生の「前半」である新緑は濡れても元気だが、湿っぽさに親和性の高い人の心は、雨によってしっとりと濡れ、乾いた夏のグラウンドみたいな浮ついた気持ちを、下へ下へと降ろしていく。
そう思えば、雨も私たちを下へ下へ、地球へ地球へ、大地へ大地へと戻す作用である。
「重力に負ける」時期は、帰路につく時期だろう。
大地に戻れば、また種が土にまかれ、そこから新たな芽が出る。
その時出てくる芽はもう「私」ではないかもしれないが、「私」もまた大地(=地球)からせり上がってきた山のようなものだとすれば、それが「私」なのかそうでないのかは、あまり大きな問題ではないのかもしれない。