インターネットで済ませられることはインターネットで済ませたい。
そうは思っても、できないこともある。
インターネットで銀行口座を開ける時代でも、実店舗に口座を開きにいかなければいけないことがある。
そして、実店舗に行くと、多くの人が待っている。
しかたなく番号札を取って、バッグの中の夏目漱石『三四郎』を取り出して読む。
10ページほど読んでいると、係の人がやってきて要件を聞いてきてくれたので、「口座を開きたい」と言うと、
「自宅の最寄り店はここではないが、いいか」と聞かれる。
「むろん問題ない」と答える
「なぜこの支店なのか」と聞かれる
「自転車で通りかかったからだ」と答える
「本当に最寄り店でなくて大丈夫か」と聞かれる
「最寄り店でないと問題があるのか」と聞きかえす
「そんなことはない」と答える
「ではこちらも問題はない」と答える
「では、用途はなにか」と聞かれる
「家賃や給与の振り込みで使う」と答える
「それなら最寄り店の方が便利なのではないか」と言われる
「ここで口座を開くのはまずいのか」と聞く
「まずいことはない」と答える
「ではよろしく頼む」と返す。
明治時代の小説を読んでいると、しゃべり方に少々、明治時代の影響が出てしまう。
口座は開けることになったようだが、なんだか嫌な気分が残る。
銀行には縄張りのようなものがあるのだろうか。
お客の口座を、最寄り店以外で開いてしまうと、最寄り店の縄張りを荒らしたことになるのだろうか。
「うちの客を横取りしやがって・・・」
そんなことが、ネットで口座を開ける時代に起こり得るのだろうか。
不毛だ。
口座開設に必要な基本事項を紙に記入し終えると、係の人から営業も兼ねた説明を受ける。
係の人は、インターネットでもいくつかの取引をできることや、保険に入ると特典がたくさんつくことを説明してくれる。
僕が興味なさそうにその説明を聞いていると、係の人の背後から、僕らの会話を遮って話しかけてくる男がいる。
しかも英語で。
お客対応中に話しかけられた係の人は、とりあえず順番待ちの番号札を取ってくれとその男に言うが、男性は焦っているようで、話をやめない。
なにやら割り込む理由があるらしい。
そうはいっても、係の人は順番に対応するしかなく、再び男に、まずは順番札を取って待つよう言い、僕の用事を済ませるためにカウンターの奥に引っ込んだ。
一人取り残され、立ち尽くす男に、「とりあえず番号札取っとけば」と僕は勸めてみる。
しかし、男は、そんな時間はないんだ、すぐに大学に戻らなければいけないんだ、と繰り返す。
事情を聞いてみると、その男は、前日に奨学金申請のために銀行に来たのだが、朝になって、銀行から電話があり、書類に漏れがあるため銀行に来てくれと、言われたのだという。
しかし、今日は用事があって時間がないので、番号札を取って悠長に待つ余裕はないのだと説明する。
どれだけその男が急いでいたとしても、銀行からの要請でやってきたとしても、順番は順番だ。
そう、考えるのが日本では普通なのだろうなと、銀行員の対応を見て思う。
しかし、ふと、アメリカのスーパーを思い起こす。
アメリカのスーパーでは(欧州も同じだと思うが)、レジに客が並んでいる際、ジュースやパンなど、1,2点しか買わない客を優先的に通す習慣がある。
列に並んでいる人が「先にどうぞ」と通す場合もあるし、本人が「これだけだから、先にいいかな」と言う場合もある。
どちらにしても、少量しか買わない人は、大抵の場合、どんどん列の前に通される。
早く来た人が早く対応されるのではなく、時間のかからない人が先に対応されるのが「公平」だと思う社会なのだ。
そう思うと、日本の銀行で順番札を取らないその男性は、マナーを守る気がないわけではない。
番号札を取らないし、前の人に割って話しかけるが、それをするだけの正当性があると自分では思っている。
割り込む正当性があれば、それを主張していいという社会にとっての「公平」と、どんな事情があってもルールを守るべきと考える社会の「公平」は違う。
日本も昔は違ったのだろうが、今は、なんだか杓子定規な社会になってしまったので、順番を守ることが「絶対的な公平」だと思う人が多くなった。
しかし、目の前に急いでいる人がいれば、入れてあげるのが「情」というものなので、銀行の係の人に、男性がなぜ焦っているのかの事情を説明し、自分の先にやってくれるよう頼んだ。
係の人は困惑しながらも、その男性の対応をしてくれた。
男性は日本語ができないらしく(じゃあ、前日はどうやって奨学金申請したのだろうか)(そのわりにハンコ文化には詳しかった)、係の人との間に僕が入ることで、無事に用事を終え、銀行を去っていった。
銀行の係の人は、とっさに対応してくれたことと順番を譲ってくれたことで僕にお礼を言い、帰り際に「粗品ですけど・・・」とお礼の品をくれた。
家に帰って開けてみると、ティーパックの緑茶の試供品で、本当に粗品だなと思ったが、ルールを厳格に守る銀行にも、現場の行員の裁量が少しは認められているんだなと思った。
ルールの中で、「情」を優先したり、現場の裁量に任せることは、融通をきかせることである。
融通のきかない社会より、融通のきく社会のほうが生きやすい。
そして、融通のきかない社会で、融通をきかせる場面を切り開くのは、ルールを守っていないように見える「外の人」である。
「外の人」が揺さぶる社会の常識は、それ自体を見直す契機である。
常識は常に疑うべきだと、どの時代の偉い人も言っている。