門のない家

先日書いた「シアトルのホームレス問題」を考えていた時、
ふと、ある小説のことを思いだした。
ショートショートで有名な星新一の作品の一つ。
「門のある家」。

うだつのあがらない会社員である青年がある日、
立派な門のある、見慣れない邸宅に足を踏み入れると、
その家の夫人や老婦人は当たり前のように、青年を、一家の主「真二郎」として接する。
自分は「真二郎」ではないと思いつつも、
その家の居心地の良さに「真二郎」を演じていると、
そのうち、自分が「真二郎」であることに疑問を抱かかなくなる。

すべてが秩序だったその家で、自分が「真二郎」として扱われることは何より心地がよく、
門の外に出ようという気すら起こらなかった青年は、
家の中で、夫人と老婦人、女中や下男たちと静かに暮した。

そんなある日、その家に、
「真二郎の親戚」を名乗る男が、金を無心にやってきた。
家の秩序を乱すその男に対し、
真二郎は、ポケットの金を少しばかり渡して、体よく、家から追い払う。

一家の主として正しい振る舞いをし、家を守る真二郎だが、
ある日、夫人が家から出たまま、数日間帰って来なくなってしまう。
夫人がいなくなり、青年は、家の秩序が乱れたことに不安を抱くが、
数日後、無事家に帰ってきた夫人を、青年は暖かく迎え入れる。
その夫人は今までの夫人と顔や仕草が違い、別人のように見えたが、
同じ夫人かどうかであるよりも、夫人が帰ってきたという安堵感に満たされた青年は、
その女性を、自分の夫人として大事にしようとする。

最初はその家での振る舞いに戸惑っていた”新しい夫人”が、
さも何年もそこに住んでいるかのように振る舞いだした頃、
青年は、食器を置く位置のことで、夫人と口論になる。
昔からの家の決まりを主張する夫人と対立した青年は、
その家に来て以来、始めて家の門を出て、飲みに出かける。
近くのバーで飲み始めた青年は、酒をあおりつつ、ふと我に返り、
自分が本当はあの家の主「真二郎」などではなく、
ただの、うだつのあがらない会社員だったことを思い出す。

本来の自分の姿を思い出し、もうあの家には戻れないことを悟りながらも、
あの家での生活を思い出す青年は、ある日、
吸い寄せられるようにあの家に近づき、門をくぐる。
すると、そこには、「家の主」と「その夫人」を名乗る、
見たことのない女と男が立っていた。
まごつく青年をよそに、家の女中は、
青年のことを「金を無心にきた親類の方」と二人に紹介し、
家の主である「真二郎」は、ポケットの金をつかみ、青年に渡す。
青年は以前自分が追い払った「金を無心にきた親類の男」に自分がなっていることを自覚し、
門を後にする。

この物語では、家の主人や夫人だけでなく、老婦人も女中も、下男も、
随時、入れ替わり、違う人間が演じているが、誰もそのことに気を止めない。
顔や仕草や性格が前とは違っても、「その人」なのだと周りの人が思えば、
それは、もう、「その人」なのだ。

この話の中で、青年は、ある時に「真二郎」であり、
後に「金を無心に来た親類の男」だったわけだが、
青年は、周りから、「真二郎」として扱われた時には「真二郎」として振る舞い、
「親類の男」として扱われた時には、「親類の男」として振る舞った。
青年は周りに期待された役割を、全うしたのだ。
その家には、人の自我や個性を消滅させ、
その「役割」だけに徹させるような力があったのだが、
それは、私達の社会でも、「役割」さえあれば、
たとえ、それを演じる人間が変わっても、
社会はうまく回るというメタファーでもある。

さらに、物語の中の「社会的な役割」を「人生」と見れば、
あの青年は、同じ生の中で、
「真二郎」と「親類の男」と「うだつのあがらないの会社員」、3つの生を生きたことになる。
青年は、たまたま「真二郎」だった時があり、
「金を無心にきた親類の男」だった時があり、
そして、たまたま「うだつのあがらない会社員」だった時があったのだ。
「誰か」として、その人生を生きることは、たまたまのことなのだ。

そのことは、青年が家の主「真二郎」であった時に何も知らずに、
家に金を無心に来た「親類の男」を軽くあしらってしまったために、
後に、自分が「親類の男」の立場になった時に、
しっぺ返しをくらってしまいました
(だから、どんな相手にも優しくしましょう)という道徳的な話ではない。
今わたしが生きている生は、たまたまであり、
わたしが「青年」であることも、「真二郎」であることも、
「親類の男」であることもあるのであって、
自分が「真二郎」であった時に出会う「親類の男」は、
自分が、別で生きたかもしれない「わたし」だということだ。

それは、「真二郎」や「親類の男」だけでなく、
他の、「夫人」も「老婦人」も「女中」も「下男」も、すべて、同じ。
すべて、「自分が別で歩んでいたかもしれない可能性」「わたしの別の姿」なのだ。

そう思うと、この人生において、
僕は今、「シアトルの道路に暮らすホームレス」ではないが、
そうであった可能性はあったのだ。
同じように、僕はどこかの裕福なアラブの王族の第一王子ではないが、
そうであった可能性もあったのだ。
そして、そうであった可能性があったにもかかわらず、
実際は、そうではなかったということが、自分の生を生きる後押しをしてくれる。
であれば、ホームレスを忌避することも、裕福な第一王子を羨む必要もない。
「ホームレスもわたし、第一王子もわたし」(みたいなもの)なのだ。

自分が同時に「真二郎」であり、「親類の男」であることは、
人間が二つの生を同時に生きることができない以上、不可能なことだから、
物語の中でも、言い方として、「私はかつて「真二郎」であり、後に「親類の男」であった」
ということしかできない。

それは、仏教が「来世」を設定することと同じ話なのかもしれない。
実際にはできないが、私たちがもし、同時に複数の生を生きられるとするならば、
「真二郎」も「親類の男」も、「女中」も「下男」も、すべて「わたし」である。
それを、「時系列」(”かつて”と”後に”の話)として、「過去世」とか「来世」で語れば、
「かつて、わたしは『真二郎』」であり、「後に、『親類の男』であった」となる。
それをずっと広げていけば、わたしはかつてどこかで「女中」であり、いつの日か「下男」である。
過去と未来をずっと遡れば、世の中すべての人の生を、順に、生きることになる。
「みんなわたし」なのだ。

そう思えば、シアトルの路上で寝ている人もわたし。
僕が車上からホームレスに向けている視線は、
そのまま、眼の前を車で過ぎ去るアジア人からわたしに、向けられている視線なのだ。
僕らにはなんらかの関係があり、
”門”をくぐれば、立場は、入れ替わるのだと知っておこう。

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