今年の「小林秀雄賞」は数学者の森田真生の著書
「数学する身体」だった。
森田さんはまだ30歳の新鋭で、どこの大学機関にも属さず、
在野で数学の魅力を伝えている、なんとも興味深い人だ。
受賞作の「数学する身体」では、
数学者のアラン・チューリングと岡潔の試みを追いながら、
私達が思う数学の枠を取っ払うような数学論を展開している。
森田さんが以前、インタビューで語っていたことがある。
「普通の哺乳類は色覚が2色しかないのに対し、
人間は3色を識別することができる。
その理由は、「人の顔色を読むように進化した」
ことにあるそうです。
物理的にはほとんど差がない「顔色」のわずかな違いを、
人間は無意識のうちに識別している。
このような事例は枚挙にいとまがありません」
人は他の動物よりも微妙な顔色の変化を見て取ることができる。
顔色を伺い、表情を読む。
人の反応を非常に気にして生きている日本の人達は、
特に、顔色を読む能力を社会から要求されている。
「空気を読み」「顔色を読む」のは、
日本社会でのコミュニケーション能力として必須だ。
そんなコミュニケーション能力のことを考えていたここ数日、
会話の中で、二人の人が「アスペ」という単語を出した。
アスペ・・・?
「アスペ」とは「アスペルガー症候群」の略なのだが、
「アスペ」と略すくらい気軽な単語として今は使うらしい。
「うつ病」を「ウツ」(e.g.「今日、ちょっとウツ」)と
気軽に日常会話の中で使うようになった原因が、
以前より皆の気分が簡単に落ちるようになったことにあるとしたら、
「アスペルガー症候群」が「アスペ」と気軽に使われ始めたことは
以前より皆、うまくコミュニケーションが取れなくなった
ということだろうか。
アスペルガー症候群の人達は「空気を読む」のが苦手である。
相手が傷つくことをストレートに言ったり、
相手の含みをもたせた言葉が理解できなかったりする。
人の「顔色が読めない」。
知的な障害はないため、傍目には
コミュニケーションに問題があることがわからないところが、
問題を難しくしている。
ここ数年で教育現場でも広く認知されるようになり、
周りが対処の仕方を分かるようになったが、
「アスペ」と略され始めたということは、
先天的な病気としてのコミュニケーション障害と、
(経験不足などの)後天的なコミュニケーション障害が
混在されていくということだ。
どうにも処方することができない先天的病気と比べると、
ただのミュニケーション下手は、どうにかする余地がある。
あまり簡単に、言葉を混同しない方がいいと思う。
森田さんが本の中でも言及している数学者の岡潔は、
「情緒」の大切さをずっと言っていた。
「情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する」と。
そして、「人として一番大切なことは、他人の情、
とりわけ、その悲しみがわかるということ」だと。
人の「顔色が読める」ことは時に面倒でやっかいだが、
人として一番大切なことでもあるらしい。
人として一番大切なことができる可能性がある人と、
それができずに、違う大切さを追うしかない人を、
同じ言葉で呼ぶのは、いかがなもんかな。
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