友人と話していて瞑想やヨガの話になった。
彼女はヨガを何年もやっているので、
ヨガや瞑想の良さを知っているが、
周りの男達が全然、その良さをわかろうとしないという。
僕はヨガも、いわゆる「瞑想」もそんなにしないが、
その効能はわかる。
その効能がわかる素地が僕にはある。
茶道と瞑想とヨガの同じ点をあげるとすると、
「いま・ここ」を感じるためのものだといえる。
このことは、こどもにはわからない。
子どもは、正座してまずい抹茶を飲む良さもわからないし、
ただ座ってじっと目をつぶる意味もわからないだろう。
そう。
その男達は、たんに子どもなのだ(と一応言ってみる)。
ヨガや瞑想に興味がない男は、
どちらかというと世俗的というか、
現世にしか興味がないのかなと考えてみる。
「社会」とか「世間」とか、
この人間界の価値に一喜一憂する人達。
そういう人達は、瞑想さえもツールとして使う。
自分のパフォーマンスを最大にするためのツール。
それはそれでかまわないが、なんだかなあとも思う。
「いま・ここ」でいうと、食事も同じようなものだ。
「いまを丁寧に生きる」人達は、食べることも大切にする。
ゆっくり食べる。
よく噛んで食べる。
それに対して、子どもも男もガツガツ食べる。
ハンバーグをオムライスを、バクバク食べて、
牛乳を一気飲みして、運動場にサッカーしに走る。
「いま・ここ」がどうした。
早くしないとゴール取られちゃうよ。
子どもと男は、いつも急いで生きている。
そんな男にご飯をゆっくり味わう大切さを教えるのは難しい。
同じように、ヨガや瞑想の良さを教えるのも難しい。
諦めたほうがいいのかもしれない。
ただ、その良さがわかる男もいる。
僕のように。
じゃあ、僕が丁寧に食べてるかって?
まさか。
片手で済ませている。
ただよく噛むことの効能はわかる。
その効能がわかる素地が僕にはある。
しかし、ただ、素地があるだけだ。
わかることとやることは、また、別の話だ。
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