
僕の体は、あくびをすると記憶が蘇るようにできている。
 あくびをして、むにゃむにゃしていると、
 過去に体験した匂いや味が蘇ってくることがよくある。
 ああ、そういえば、保育園の廊下はこんな匂いだったな、とか
 ああ、小学校の給食で、よくこんなナムル出てきてたな、とか
 すっかり忘れていた記憶が、
 匂いや味とともによく蘇る。
その体験自体は、
 からだ主催のレクリエーションみたいなもので楽しいのだが、
 その体験が”しょっちゅう”あることなのか、”たまに”あることなのか、
 どっちなんだろうなあ、とたまに考える。
あくびをすると必ず記憶が蘇るわけではなく、
 記憶の蘇らないあくびの方が、割合的には多いので、
 記憶の蘇るあくびは、”たまに”しかしていない、といえば、していない。
 だけど、記憶の蘇るあくびをしている人は、
 世間にそんなに多くいないのではないか、とも思う。
 当たり前すぎてみんな話していないだけかもしれないが、
 目の前であくびをした人が、
 「今のあくび、高校の体育倉庫の跳び箱の匂いのあくび」
 なんて言うのを聞いたことはない。
 そんな人がいたら、心から同意したいので、忘れたということもない。
 もし、記憶の蘇るあくびを多くの人がしていないのだとしたら、
 僕は、回数的に、”しょっちゅう”記憶の蘇るあくびをしていることになる。
宝くじで100万円を3回当てた人は、
他人に、「俺は”しょっちゅう”当たる」というのだろうか。
 「100万円を3回」は、”しょっちゅう”のような気もするが、
 買っている回数を聞かないと、
”しょっちゅう”当てているのか”たまに”当たっているだけなのかはわからない。
宝くじを”しょっちゅう”買っていたら、「100万円を3回」当ててても、
 割合としては、”たまに”しか当たっていない可能性もある。
”しょっちゅう”も”たまに”も、
 絶対的な回数と、世間との比較でもって、使い分けられる。
 トークとして面白い話をする時には「宝くじが”しょっちゅう”当たる」だし、
 金を貸してほしそうなやつに対しては「俺は”たまに”しか当たっていない」というのが賢明だ。
 ”しょっちゅう”と”たまに”は、意志によって変わる。
世の中の、”しょっちゅう”トラブルを起こす人と”たまに”しかトラブルを起こさない人、
 ”しょっちゅう”怒られる人と”あまり”怒られない人の間には、
 実は、あまり差がないってことも、あるのかもしれない。
 多いと思わせたいか、多くないと思わせたいかの違いだ。
 あくびの話も同じなのかもしれない。
 「僕は、記憶が蘇るあくびを、たまに、しょっちゅう、
したり、しなかったり」していると言っておこう。

 
 

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