坂茂(ばんしげる)という建築家がいる。
スペインの現代美術館、ポンピドゥー・センター(メス)などを手掛けた日本の建築家だが、
地震などの災害時に、紙で仮設の建物を作る建築家としても有名だ。
坂さんは災害時にすぐさま被災地に赴き、
フィルムなどに使われれる「巻き芯(紙管)」を使って仮設の建物を建てる。
紙の建築なんて強度に不安を覚えそうだが、水にも火にも余震にも負けない。
どこの被災地でも、現地の耐震基準に見合った紙の建物を建てている。
坂さんが初めて災害時の建築に関わったのは、阪神大震災の時だった。
神戸在住の外国人が多く集まる教会を「紙管」を使って建てようとしたのだ。
被災地で、最初に教会の建設を願い出た時、神父さんは
他の住宅がまだ再建されていない時期に教会を建てることに反対したという。
そして、「建物が失くなってはじめて、教会になった」とも言った。
教会という建物を失うことで、教会の意味、役割を再認識することになる。
そんな逆説を前に、坂さんは、毎週のミサに東京から始発で通い、信者との親交を深めていく。
すると、自身でお金を集めることを条件に「紙の教会」を建てる許しがおり、
紙の教会建設に着手する。
倒壊した教会が再建されるまでの「仮設」として、
数年使ってもらえればいいというつもりで建てた紙の教会は、信者に愛され続け、
その後、十年以上も使用されることになる。
ようやく「仮設の」教会ではなく、「永続的な」教会の再建が決まった際、
台湾で大地震が起こり、「紙の教会」は台湾に寄付されることになった。
もともと「仮設」として建てられた紙の教会は、ばらばらにされて、台湾へ移築され、
今も、台湾と神戸の震災を伝える建物として、役目を果たしている。
2011年にニュージーランドで地震が起きた際も、現地からの要請があり、
坂さんの紙で作られた美しい教会は、クライストチャーチに建てられた。
「人が愛すれば、紙で作っても、permanent(永続的)になる」
坂さんはそう言って、「仮設」と「permanent」の壁をとっぱらう。
コンクリートで作っているからといって、壊れないわけではなく、
大きな地震が来たら、ちゃんと壊れる。
コンクリートで作られた建物がpermanentで、紙で作られた建物が「仮設」なわけではない。
「permanent」か「仮設」かは、使う人によって決められるのだ。
世界中どの地域でも手に入る「紙管」を材料として使う坂さんは、
「西洋から見える日本」を武器にして戦うつもりはないと言っているが、
どう見てもその考えの近くには、鴨長明がいる。
「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」だ。
「 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
世の中の住処(すみか)は、紙であろうとコンクリートであろうと、
「久しくとどまりたる」ことはない。
常に地面が揺れている国の建築家は、鉄やガラス、コンクリートを用いていても、
「建物は『淀みに浮かぶうかたか』だ」と思っているのかもしれない。
先日、また、東北地方で大きな地震がおきた。
わたしたちはこの島の不安定さに慣れきってしまっていて気づいていないが、
よそから見ると、地震で揺れてばかりの島で暮らすということは、
極寒のアラスカで暮らしたり、灼熱の砂漠で暮らすことと変わらないのかもしれない。
その揺れる島の住処は、材料が何であっても、いつも「仮設」だ。
「仮設」だからこそ、揺れたらすぐに、それを捨てて、逃げられるのだ。
西洋のように、建築を「permenent」なものとして、芸術のトップに位置づけていたら、
私たちは、簡単に捨てれない。逃げられない。
私たちは、生き延びるためにも、「仮設」や「permanent」を材料の問題ではなく、
心の問題にしているのだ。
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