イヤホンの中の落語家・立川志の輔が言う。
「あの人の歌がとか、落語がとか、
そこで留めておけばいいんですけど、
なんだか、評論を、皆したがるのね。
『なぜ俺がすきかっていうとさー』
そういうことを言う人が多くなったジャンルが
どんどんすたれていくのね。
落語もそうで、・・・」
なぜ好きか。
どういいか。
人が評論をしだして、その評論が小難しくなり始めると、そのジャンルは廃れていく。
歌舞伎俳優や噺家を、ただ、好き嫌いで語っていた頃はジャンルとして人気があったが、
評論の対象になって、小難しく語られだした辺りから、客は離れていった。
もしくは逆に、
好き嫌いだけで見ていた客が離れていったから、
難しい顔して評論する人だけが客として残ってしまったのかもしれない。
みんなに人気のある娯楽は、小難しくない。
芸人(漫才)のことは好き嫌いだけで語れるし、
野球選手のことも好き嫌いだけで語れる。
「私、トレンディエンジェルの漫才、好きー」
という人はたくさんいるだろうが、
「俺がなんでブラックマヨネーズの漫才が好きで
ノンスタイルの漫才が嫌いかっていうとー、
話の入り方とオチの組み立て方が全然違って・・・」
という人はまだ、そんなにいない。
日常会話で漫才を分析する人なんて、面倒くさい。
そんな面倒くさい人が、歴史の長い娯楽ファンにはたくさんいる。
そう考えると、映画なんかは、ちょっと危ないのかもしれない。
みんな、ウェブ上で自分なりの映画の評論を披露したがっている。
僕も、したがっている。
黄色信号だ。
誰かを好きになる前に、好きな理由を明らかにしようとする人はない。
好きかどうか、一緒にいたいかどうかが第一で、
理由は後から、考えたいなら考えればいい。
別に、考えなくてもいい。
好きか、好きじゃないか。
それだけでいい。
志の輔の噺がサゲ(オチ)に入った。
ああ、いい噺だった。
志の輔の落語はいい。
何がいいかって言うとー、
いや、そんなことはどうでもいいんだった。
問題は、僕が志の輔の落語が好きかどうかだけだ。
理由なんてなんだっていい。
でも、でも、敢えて理由を言うとするとー、
そりゃあ、あれだ。
面白いからだ。
じゃあ、なんで志の輔の落語が面白いかっていうとー、
そりゃ、あれだ。
志の輔が好きだからだ。
そう、それだけで十分だ。
これ以上、小難しい話をして、
これ以上、落語をマイナーにしてどうする。
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