子ども達に勉強を教えていると気づくのは、
字が汚い子は、勉強ができないということだ。
小学校一年生で鉛筆の持ち方を教えるのは、
ちゃんと鉛筆を持たないと、綺麗な字が書きにくくなるからだろう。
字が汚い子は、自分がノートになんと書いているのかわかっていない。
自分でノートに書いた「1」を、次の段では、「7」として計算している。
自分で「8」と書いておきながら、次の段では「6」として計算している。
自分で自分の文字に惑わされている。
字の汚い子は、考える時、メモもしない。
方程式の計算中、全体に8をかけているはずなのに、違う数字に気をとられて、
途中から7をかけていたりする。
「太郎君が買ったりんごの数」をxにしていたはずなのに、途中で、
弟の「次郎君が買ったりんごの値段」がxに変わっていたりする。
「家までの距離を求めなさい」という設問で、
途中までは「家までの距離」を求めていたはずなんだけど、途中から、
「家までの時間」を求め始め、最終的な答えが「3.2分」となっていたりする。
何を求めようとしていたのか。
完全に着地点を見失っている。
それらのことは子どもに教えるようになってから気づいたことではなくて、
学生の頃からちゃんと気づいていた。
学生時代、勉強をまったくしない友達のノートが汚くて読めなかったからだ。
ノートは綺麗にとった方がいい。
計算式では、逐一メモをしたほうがいい。
そうすれば、後から確認する時に、役に立つから。
先日、押し入れの荷物の整理をしていたら、
高校時代につけていた日記が出てきた。
日記をつけていたことすら忘れていたので、
びっくりしたが、開いてみて、更にびっくりした。
何か、訳わかんないことばっか書いてある・・・。
文字が汚いわけではない。
ちゃんと丁寧に書いてので、読めはするのだが、いかんせん意味が通じない。
ちょっと、ポエティックすぎる・・・。
こんなこと、書いた覚えはない。
「地上から飛び立つ獅子」ってなんだ・・・。
こんなこと、僕が書いたはずがない・・・。
わけわからん。
隔絶がありすぎる。
でも、これを書いてる時は真剣だったんだろう。
高校生なりの設問があって、高校生なりに、「獅子」をxに設定したのだろう。
もしくは、当時感じていた、何かの社会の不条理を「獅子」に設定したのだろう。
だけど、大学以降、僕は日記を付けなかった。
10代の「段」で設定したxを
20代の「段」に移る時、
なんのメモも残さなかったせいで、
「僕」全体に何を掛けたのかわからなくなってしまった。
途中式が失われたことで、最初の設問までたどることができなくなってしまった・・・。
高校生の時に仮定したxがなんだったのか、
その時取り組んだのが、何を求める設問だったのか、
今やわからなくなってしまった。
答えの単位は「分」だったろうか、それとも「km」だったろうか。
10代で持っていた「問い」を忘れたのだ。
「答え」は、完全に、見失われてしまった。
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