「あけましておめでとう」
子どもの頃、こういう決まりきったあいさつが、
中々スムーズに口をついて出てこなかった。
昨日(12/31)と今日(1/1)で何ひとつ変わったことはないのに、
何がそんなにめでたいのか。
大人たちは、ただの「形式」に疑問を持たないのかな・・・。
ぺこぺこ頭を下げ合う大人を見ながら、
そう思っていた。
子ども時代に「あけましておめでとう」がわからないのは、
「当たり前」の大切さを知らないからだ。
子どもは、「時は戻らない」ということを知らない。
過ぎ去った日々が、二度と戻らないということを知らないから、
桜の美しさも、紅葉の儚さも、元旦のめでたさも、わからない。
「前に会った時より、だいぶ大きくなったなぁ」
子どもは、久しぶりに会った親戚のおじさんが、
その成長ぶりに驚き、決まりきったようにこう言うのを聞いて、うんざりする。
子どもにとって、大きくなることは「当たり前」なのに、
なぜ大人は「当たり前」なことばかり言うのか・・・。
だが、大人にとって、大きくなることは「当たり前」ではない。
大人にとっては、もう大きくならないことが「当たり前」で、
大きくなることが「当たり前」だった日々は、もう過ぎ去った「過去」だ。
だから、「当たり前」のように大きくなる子どもを見て、感嘆するのだ。
大人は、子どもを見て、「当たり前」の尊さをひしひしと感じる。
博多の名僧、仙崖和尚はある時、村人に、
「何かめでたい言葉を一筆」と求められ、
「親死ね 子死ね 孫死ね」
と、讃をしたためたという。
「なぜこれがめでたい言葉なのですか?」と村人が問うと、
「親が死んで、子が死んで、孫が死ぬ。
順番通りにいくことが人間にとって一番めでたいことだ」
と言ったらしい。
「当たり前」が一番めでたく、
「当たり前」が一番、貴重。
そのことは、何度も新しい年を迎えた人ほど、
新しい年を誰かと一緒に迎えられなかったことのある人ほどわかる、
大人の感慨だ。
お年玉でしか喜べない子どもたちには、わかるまい。
去年も、人それぞれ、色々なことがあっただろうが、
個人的には、今年も、しっかり年があけた。
貴重で、めでたい年明けだ。
「今年も、どうも、あけましておめでとうございます」
コメント