「現在、多くの会社が過当競争に苦しみ、その重圧を
抱え込んだ中小企業の経営者たちは・・・」
と、テレビで、不況にあえぐ地方の経営者の特集をやっていた。
今の経済活動がストレスフルな原因の一つに、
経済が「ゼロサムゲーム」の側面を持っているということがある。
ゼロサムとは、サム(=合計)がゼロということで、
「誰かが儲ければ、誰かは損する」、
「誰かが勝てば、誰かが負ける」ゲームだということだ。
巷には、「Win-Win(取引する両者ともに利益があがる)」という言葉もあるが、
Win-Win連合が仕掛けた攻撃の裏には、必ずLose-Lose連合がいて、
その人たちは、Loser(負け犬)と呼ばれていたりする。
別に僕は、そのゲームの仕組み自体を強く非難するつもりはないが、
その仕組みの上で活動している会社やそこで働く人たちは、
ゲームでの勝ち負けに注目しすぎて、
「参加者みんなで一緒に喜んだり悲しんだりする」
ってことを忘れてしまうんじゃないかなと思う。
今のような経済のルールが整う前、
いわゆるムラ社会が頑然とあり、その中でほとんどの経済が回っていた頃、
「豊作」は誰にとっても嬉しいことだった。
ある村が豊作になったからといって、隣村が不作になることはなかったし、
ある村の中の一つの農家だけが金持ちになったり、
ある村の中の一つの農家だけがメディアに取り上げられることもなかった。
豊作は村全体に訪れることで、
ある村に訪れた豊作は、たいてい、隣村にも訪れた。
そんな時代は、「今年は豊作だ!」とみんなで喜び、
「今年は不作だ・・・」とみんなでしょんぼりしたのだろう。
だから、豊作の年の祭りは盛り上がっただろうし、
不作の年の祭りでは、みんながやけっぱちにもなっただろう。
人は運・不運に振り回されなくていいように、
知識を積み、技術を磨いてきたわけだから、
全体的な「運・不運」が、個別の「勝ち・負け」になるのは仕方ないような気もするが、
みんなで「今年は豊作だ!」と喜んだことのない身からすると、
なんだか、羨ましいような気もする。
(まあ、「景気の良し悪し」で、今もみんなで、喜び悲しんでるんだろうけどね)
先週の日曜日、福岡は雨が降った。
先週末は、タイミング的に満開の花見Day、しかも最後の週末だったので、
日曜に降った雨は、残念としかいいようがない。
土曜日に晴れたのがせめてもの救いで、もし土日とも雨が降っていたら、
誰にとっても悲しい出来事だった。
花見は「ゼロサムゲーム」ではない。
福岡が花見日和だったからといって、代わりに東北の桜に雨が降るわけではない。
桜が満開になる週末は、福岡も仙台も横浜も大阪も、
どの街も晴れていいし、晴れてほしい。
日本中、すべてのまちの桜が花開いたら、
「今年も桜が綺麗に咲いた!」と、日本中のみんなで喜びあいたい。
「今年も誰も欠けずに桜が見れた」と、みんなで、騒ぎ合いたい。
終わりのない経済消耗戦をやってるようにみえる現代社会でも、
社会のすべての場面において「ゼロサムゲーム」が行われているわけではない。
「仙台の桜がきれいだ」と喜び、「福岡の桜もきれいだ」と喜んでも、
誰にとっても不都合はないのだ。
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