名作「タッチ」や「H2」でお馴染み、
あだち充先生が描くマンガは、みんな登場人物が同じ顔をしている。
どのマンガも、主人公の男は、さらさら髪の優男と男気ある短髪(H2でいうと、比呂と英雄)。
ヒロインの女は、清純派の黒髪と活発なショートヘア(ひかりと春華)の、二種類のみだ。
これは、わざと先生が、描き分けていないのか、
それとも、同じような容姿のキャラしかもう描けないのか・・・。
「先生本人は、自分が描くキャラの見分けがついているのか?」
そんなファンの疑問を解消すべく、
あるテレビ番組で先生に対する検証が行われた。
結果、あだち先生は、まったく自分で描いたキャラの見分けがついていなかったことが判明した。
先生曰く、あれは
「あだち充劇団の中で、同じ人間が違う芝居をしているだけなので、
同じ顔でも問題はない」とのことだった。
なるほど。あれは、劇団員なのか。
確かに、あだち先生のどの作品を見ても、同じような顔をしたキャラが出てくるが、
週刊マンガ誌をめくってあの絵をみた瞬間に、
「あ、あだち充のマンガだ」とわかる。
それが、一瞬でわかるってことは、
先生は、誰よりも、他のマンガ家との描き分けができているということだろう。
他の誰とも違う絵を描けている時点で、オリジナル。
それ以上望むことはないような気もする。
さらに、あだち先生は、キャラだけでなくストーリーも同じような展開が多い。
キャラの顔と性質がほぼ同じで、同じ劇団員だと、
やはり、ストーリーも同じになるんだろうか。
ビジュアル、性格、ストーリーで、一つのものがたりの構造を確立したら、
あとはそれの繰り返し。
多分、それが2作、3作の頃は、
「前作の焼き直しじゃないか」「マンネリなんだよ」との批判があったと想像するが、
それが、9作、10作となったら、それはもう「古典」みたいなものだ。
サザエさんやドラえもんと同じで、
同じキャラによる同じストーリー、同じオチでも、
「待ってました!」とばかりに、
読者は、そのお決まりのオチを楽しめるようになる。
古典落語のように、オチが分かっていてもその話を聞きたいと思われたら、
それはもう名人芸だ。
世はつねに、新しい作品、新しい噺が作られているように見えるが、
予定調和満載の古典芸も同時に求められているのだろう。
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