思っていることをそのまま口に出してはいけない。
そう思いながら生きている。
自分の考えていることと他人の考えていることは違うのだから
自分の考えていることをそのまま言って、
相手を不快にさせてはいけない。
引っ越しに伴って、長年切ってもらっていた美容院に
行けなくなり、新しいところを探すことになった。
美容院は苦手だ。
何を話していいのかわからない。
話すべきなのかどうかもわからない。
当たり障りのない話題でやり過ごさなければならない美容院は
思っていることを言っていけない場だ。
経験上そのことは知っている。
知っているはずなのに、美容師の質問の仕方がうまかったのか
乗せられてついついしゃべってしまった。
お客も美容師もしゃれた人ばかりの空間なのに、
道祖神が各地にある理由とか、 日本人が英語が苦手なのは
世界の言語が3系等に分かれているせいなのかとか、
「そんなん求めてねえよ」という話ばっかりしていた。
髪を切られている間、低い声で小さく唸っていたら、
「何考えているんですか?」と聞かれたので、
「小説とかで、『通奏低音のようにずっと鳴っていた』
ってあるじゃないですか。通奏低音って多分、オーケストラ
とかから来てると思うんですけど、あれは西洋文学からの
翻訳言葉なのかなあと考えてて」
と言ったら、苦笑いされた。
そこで、気づけばよかったのに、そのまましゃべってしまって
カットが終わって最後に、
「いつも右と左、前髪どっちに流してますか?」
と聞かれたので、
「僕、毎朝思うんですけど、右に流して『決まったぜ』と思っ
ても、それは鏡だから、人が見たらそれは左ってことですよね。
左が決まってるかどうかは見てないからわからないじゃないで
すか。だとしたら、自分で見た右で決めるためには、左に流す
べきなんじゃないかって思って、結局どっちなんだよっていつ
も鏡の前で悩むんですけど、どう思いますか」
と答えた。
やってしまった。
その時の美容師の顔を僕は忘れない。
美容室は、思っていることをそのまま言っていい場所では
なかった。
忘れていた。
また新しい美容室を探さなければいけない。
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