司馬遼太郎はまぎれもなく、国民作家だった。
司馬史観と言われる歴史観も根強く残っている。
「竜馬がゆく」にしても「翔ぶが如く」にしても、
司馬の作品 に出てくる登場人物はまぶしく、青春の輝きがあり、
その燃えるような志に惹かれて、
多くの会社経営者たちが司馬作品を愛読するのもわかるような気がする。
それに意義を唱える人がいた。
誰だったかは忘れた。
アメリカやヨーロッパの会社経営者は、
愛読書として哲学書やギリシャ・ローマの古典をあげるのに対し、
日本の経営者が愛読書として司馬遼太郎ばかりあげるのは、
日本人が論理性に乏しく、情に流されやすく、自己をすぐに物語に投影しがちな人間だ、
ということを露呈しているようなものだという指摘だった。
それは、わからないでもない。
日本人が司馬を好きなのは、いかにもだ。
ただ、そういうならば、欧米の経営者が愛読書に哲学書をあげるのもいかにもで、
社会の公器であるはずの、人間の社会を良くするためにあるべきである企業というものが、
自社の利益の最大化に目がくらみ、近視眼的になってしまっているのは、
欧米、特にアメリカ型の企業経営者たちが、ロジックを大切にしすぎ、
情をなくしているからといえなくもない。
司馬作品には”熱”がある。
それに、日本人は共感する。
けれど、司馬遼太郎の主人公は、熱い思いをもちつつも、冷静に大局を見る人、
仲間の義理や情を感じつつも、冷徹に合理的に行動した人が多く描かれる。
司馬作品の主人公は、日本人っぽくないと言われる。
どちらかというと、欧米人っぽかったりする。
日本人が好きな歴史上の2大人物は、坂本龍馬と織田信長らしいが、
ふたりとも、まったく日本人っぽくなく、日本人が持っている感覚から大きく離れているところが、日本人に受けているともいえる。
そうして、司馬作品は長く愛されてきた。
中高生から、リタイア後のおじさんまで、幅広い世代に読まれてきた。
そうして司馬遼太郎作品が、大勢の、幅広い世代のファンを獲得してきたのは、
作品中の、キャラクター造形やものがたり構成の仕方が素晴らしかっただけでなく、
その表現方法というか、彼の文体が素晴らしく、それは、つまるところ、
文章が、短く、短く、長くというリズムで進んでいくというところにあったと聞いたことがある。
短く。
短く。
長く、というリズムで書くことで、読者は知らず知らずのうちに、
軽快な物語の中に巻き込まれていっていたとということだったので、僕も司馬遼太郎を見習い、
一度真似をしてみようと、その、短く、短く、長く、のリズムで書こうと思った次第でした。
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