マニ車を回す。
マニ車はチベット仏教の仏具で、表面にマントラが書かれ、
中に経文が入っている手持ちサイズのアイテムだ。
お寺には、LLサイズのマニ車がお寺をぐるっと囲むように
配置されていて、老人たちは日がな一日
それを回して過ごしている。
マニ車を回すと、中の経文を唱えたことになるので、
皆、暇があったら回して、功徳を積んでいる。
チベットにはルンタと呼ばれる、経文が書かれた小さな旗を
つなげたものが街のあちこちではためいており、
風に吹かれただけで経文が街中に飛んで行く。
ブータンには、ダルシンと呼ばれる縦長の経文旗が
山の至る所に立ててあるので、風に乗ったお釈迦さんの教えが
国中でふわりふわり飛び回っている。
マニ車を回したり旗を立てたりすることで、
お経を読んだことにする。
手軽な話だ。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えていれば極楽浄土へいける。
それも手軽な話。
その手軽さは、世間に広めるためには必要なことで、
そうでもしないと誰も振り向いてくれない。
世間の人は、日本だろうがチベットだろうが忙しい。
生きるために毎日やることがある。
その日々の中で信心を持たせようと思えば、
手軽に触れられるやり方が必要だ。
マニ車を回して、今日も結構なお経を唱えた(ことになった)。
この分だと来世も結構期待できる。
裕福な寺の息子に生まれ変われるかもしれない。
ただ、マニ車を回している間、
自分が何も考えていないことにふと気づく。
スナップをきかせてマントルを回している間は、
余計な邪念が払われて、無駄な考えが浮かんでこない。
頭の中が「無」に近づいていく。
マニ車は手軽なアイテムだが、手軽なだけではない。
小さなマニを回すための手の運動にしても
大きなマニを回すためのゆったりとした足取りにしても
頭の中がごちゃつかないための、単純な動作が組み込まれている。
「無」に近づきやすい環境が作られるようになっている。
昔から続いている形には、それなりに理由がある。
「手軽」なだけでは、時代は超えれない。
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