ニュースを見ると、誰かがスキャンダルで叩かれている。
なんでも、落語家の円楽師匠が不倫をしたという。
もう、かんべんして欲しい・・・。
円楽師匠や文枝師匠などは、もう「枠外」の人だ。
なにをしても批評の対象になった時期を「抜けて」、
世間の枠外で生きているような人たちなのに、
そんな人たちのスキャンダルまですっぱ抜くなんて、
みんな、どうしちゃったのだろう。
「還暦」や「隠居」がまだ実感ある言葉だった頃、
人は歳をとると、「いちぬけた」ができた。
元服や成人の儀礼をもって、「入り」、
還暦や隠居を皮切りに、「抜ける」。
何に「入り」「抜ける」かというと、世間(®養老孟司)だ。
世間に入っている限り、批判もバッシングもあるが、
世間に入っていない子どもや老人には、圧力はかけない。
それが、世間が機能してきた日本社会の仕組みであり、
「いちぬけた」した人達が、老後を気楽に暮らせる制度だった。
男が60歳になっても、ちゃんちゃんこを着なくなり、
子どもが、生殖能力を持つはるか前から、同級生と競争してるような現代、
「世間」は姿を変えながらも相変わらず、日本にしっかりと残っているが、
そこに「入る」「抜ける」という意識は、なくなってしまったのだろうか。
スキャンダルを暴いている側は、いくつになっても、芸能人をしている限りは、
週刊誌に追われて当然という考え方なのかもしれないが、
バリバリ世の中で働いている人(壮年)と、
その世の中から一歩距離を置いている人(老人)は、感じている世界が違う。
そして、芸の世界で生きてきた人(芸人)と、
一般社会で生きている人も、また違う。
だから、「老人になった芸人」と、「一般の会社で働く壮年」は、全然違う。
文枝師匠みたいな人を、世間にどっぷり浸かっているような僕らが裁いてはいけない。
あの人は、もう、世間を「抜けた」人なのだ。
世間を「抜けた」人のことを、「抜けてない」人がわかることはできない。
わからない人のことは、そっとしておくべきだろう。
なんでもかんでも、自分の世界観を人に当てはめるのがよくないことだというのは、
ニュースに登場する、宗教や政治の「過激派」を見ていれば、わかるはずだ。
世界は「ワンワールド」ではない。
自分が信じる一つの価値観で、世界を染めることはできないのだ。
そのことを、以前の世間はもっと知っていたのではないだろうか。
よぼよぼだった文豪・川端康成が、若き日の加賀まりこの太腿をさすっていた時、
マスコミは、川端康成がもう、世間から「抜けた」人だと思ったから、
「それ、セクハラ!」だとはいわなかったんじゃないのかい。
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