歌手のモノマネをする人が、
モノマネする時は声を真似るだけでなく、
しぐさも真似たほうがいいと言っていた。
上を向いて歌う人の時は上を向いて、
手を広げる人の曲は、手を広げて歌うと、似るという。
歌うというのは「運動」だ。
口の筋肉を使って音をだす運動。
忘れがちなことだが、
宇多田ヒカルの声は宇多田ヒカルの口から出ている。
宇多田ヒカルの口に似た口を持っている人は、
宇多田ヒカルの声に似た声が出る。
ただそれは、口だけじゃなく、喉とか鼻とか
もしかしたら、耳や肺の造りの話までいくのかもしれないけど。
歌手の福山雅治が、かつてこんなことを言っていた。
「いい歌い手っていうのは、声がいい人のこと」
売る覚えだけど、サラッとラジオで言っていたことを思い出す。
でも、これ、歌手志望の人にとっては絶望的に聞こえる言葉でもありそうだ。
「いい歌い手になれるかどうかは、生まれつき」
そう、言っているようにも聞こえてしまう。
人は「いい声」のような、天性のものや生まれ持った身体能力を、「才能」と呼ぶ。
けれど、それらは、「才能」というよりは「体」だ。
もしくは「造り」だ。
音楽の人はあまり知らないが、
ジェームス・ブラウンもパヴァロッティも石川さゆりも、
「いい声」を持つ人は、
「いい体」「いい造り」を持つからこそ、素晴らしい声が出せる。
体がそういう造りになっているから、そういう声が出る。
それは生得的なもので、備わらなかった人にとっては、
どうしようもないことだ。
ただ、福山雅治は、「だから天性の歌声を持っていない人はいい歌が歌えない」
と言ったわけではない(たぶん)。
そうではなく、自分の体の「造り」を、しっかりと自覚したほうがいい。
そう言ったのだ(たぶん)。
自分の体を自覚すれば、出る音と出ない音がわかる。
そこから自分に出る音の「出し方」を工夫すればよい。
西洋では、天性の才能のことを「ギフト」と呼ぶが、
それがたとえ、平凡な声であっても、ありきたりな「耳」であっても、
それらは、すべてが「創造主」からもらった「ギフト」のはずだ。
なぜなら、いい声の代表みたいに言われる福山雅治の声だって、
それがいい声だと本人が気づくのに、時間がかかったのだから。
本人は、氷室京介や西城秀樹みたいな声がよかったらしく、
自分の声をいいとは思っていなかったらしい。
もし、福山雅治が、自分のからだの造りを自覚せずに、
西城秀樹みたいな声こそがいい声だと思い込んで、
無理して「ローラッ!」と叫んでいたら、
あの低く落ち着いた歌声での名曲も生まれなかっただろう。
自分には西城秀樹みたいな声は出ないんだと「諦める」。
そこから物事がスタートする。
なぜなら「諦める」ことは「明らかにする」ことだからだ。
諦めることは絶望ではまったくない。
そう、大学の時に読んだ仏教の本には書いてあった。
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