マニ車の話を書いていたらブータンのポーのことを思い出した。
ポーとは「男性器」のことで、生命力の象徴として
ブータンの民家の壁には立派なポーの絵がよく描いてある。
最近は欧米化の影響なのか近代化の影響なのか、
徐々に壁から消えていっているという話も聞くが、
形は変われど、是非その感覚は残しておいてほしい。
男性器は日本では「マラ」という隠語でも呼ばれる。
これは、仏教の魔神「マーラ」から来ているといわれていて、
釈迦が悟りを開く前に、
3人の美女を釈迦の元に送り込むなど、瞑想の邪魔をした悪い魔神のことだ。
そのことから、男性器は煩悩の象徴として
「マラ」と呼ばれるようになった。
悟りを開くためには邪魔でしかない「男性器」と違って、
「女性器」は古来から、神様、仏様の名で呼ばれたりする。
桃山時代、キリスト教が日本に普及され始めた頃、
全能の神「ゼウス」を日本語で何と呼ばせるか
宣教師ザビエルは懸命に考えていた。
その時、通訳をしていた男は、真言宗だったこともあり、
様々な仏が鎮座する曼荼羅の中心にいる仏の中の仏、
「大日(如来)」と呼ぼうではないかと提案した。
ザビエルは日本語がわからなかったこともあり、
彼に従って、全知全能の神ゼウスのことを、「大日」、「大日」と呼び、
いかに神がこの世を作り給うたかということを伝道していた。
しかし、日本の民衆は「大日」と聞く度にくすくす笑っている。
不思議に思ったザビエルがわけを聞くと、
「大日」というのは女性器の隠語だということを教えられる。
全能の神を女性器の名で呼ばされていたザビエルは、
カンカンに怒ったか、ぶったまげたかしたのだろう。
以後、ゼウスを日本語で代用することを諦めて、
そのままの音、「でうす」で統一する。
女性器は生命が生まれ出るところとして、
「観音様」や「大日如来」と、男達から崇められ、拝まれてきた。
ザビエルは「神」を女性器と同一視されて怒っただろうが、
その性に対する潔癖さが日本にキリスト教が浸透しなかった一因とも言われる。
秀吉も、キリスト教の貞操観念や
夫婦間の厳しすぎる不貞感覚さえなければ
自分もキリシタンになるのになあと言ったとか言わなかったとか。
アメリカの離婚率や、フランスやイタリア人の恋愛事情をみていると、
キリスト教の貞操観念・恋愛観は「建前」だということがわかる。
時に、輸入物は純粋に走りやすい。
日本にはキリスト教の教義は輸入されたが、
キリストの教義を「建前」とするハウツーまでは入ってこなかったらしい。
でも、もしかすると、まだ時間が足りないだけなのかもしれないだけで、
もう少し時がたてば、女性器を「でうす」と呼んでも
笑い飛ばすようなキリスト教が、日本にも生まれるのかもしれない。
その時は、性に寛容な日本に、もう少しクリスチャンが増えるのだろう。
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