「平和」の対義語は、「戦争」らしい。
戦争は「できごと」、平和は「状態」だと思っていたので、
対義語だと知った時は、驚いた。
平和から離れることが、そのまま、戦争に近づくことになるとは、
「平和」な国で育った僕には思えなかったし、
「戦争」というのは、戦車と戦闘機を使うものだと思っていたので、
夫婦など、個人的な関係に、「戦争(状態)」が在るなどとは知らなかった。
対義語にはけっこうバラエティがあって、
きれいに「対」になっているものもあれば、
国や文化によってペアが変わってくる曖昧なものも多い。
「黒」の対義語は「白」らしいが、
「白」のペアは「紅」でもある。
「甘い」の対義語は、「辛い」でもあるが、
「苦い」でも、間違いではない。
対義語は、「対立」概念だと思われているが、
考え方としては、「補完」概念の方がしっくりいく。
一方の極に「平和」があり、
もう一方の極に「戦争」があるのではなく、
「平和」と「戦争」が補完しあって、全体を形作っている。
「陰」と「陽」合わせて「全体」とする、「太極」の教えだ
(韓国の国旗に使われている、勾玉を合わせたみたいなやつ)。
二つ合わさって「全体」だとしたら、
「平和」を知るためには、「戦争」も知らなければいけないし、
「善」を知るためには、「悪」も知らなければならない。
その「平和」と「戦争」を、
「仲良し」と「ケンカ」に置き換えると、
たぶん、誰でも日常で感じていることで、
「仲良し」しか経験していない関係よりも、
何度も「ケンカ」をした後でも「仲良し」でいる関係の方が、
より「仲良し」だということは、皆が知っている。
学校のテストでは「父」の対義語は「息子、娘」で、
世間の常識では「嫁」の対立的概念は「姑」だが、
それらは本来、「対立」する二つではなく、
「補完」しあう二つだったはずだ。
対義語に、きれいな対義語と、曖昧な対義語があるように、
たぶん、世の中の「対立」にも、
どうしようもなく真っ向から敵対している、「きれいな対立」と、
本当は補完しあっているのに立場上だけで敵対している、
「曖昧な対立」があるのだと思っている。