本日は、1月の23日。
そういえば、7日は、七草粥を食べる日だった。
セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、
ホトケノザ、スズナ、スズシロの七草で、春の七草。
七草粥を食べる習慣は、僕にはあまりないし、
これまでに食べた記憶も、あいまいだ。
七草を食べる習慣はもともと、
中国で無病を祈る習慣が日本に入ってきたもので、
時とともに、正月のごちそうで疲れた胃を癒やすという意味合いも、
そこに乗ってくるのだが、
現代では、年末年始でどたばたした直後ということもあり、
行事としてのニーズはなく、
胃を癒やすという意味では、正露丸始め、千の薬が揃っているので、
胃腸薬としての出番もない。
七草粥という風習は、現状にあまり、マッチしていない。
春の七草の一つ、ナズナは、別名、ペンペン草と言われ、
田畑でも畦地でも、どこにでも生えるため、
繁殖力の高い草の代表として知られている。
その繁殖力の高さから、
「佐賀の人が通った後は、ペンペン草も生えない」という表現があるのだが、
この表現が、全然、ピンと来ない。
佐賀人の、”倹約ぶり”や”生真面目さ”を揶揄した(?)言い方で、
佐賀の人や他県の人が口にしているのを聞いたことがあるが、
「ペンペン草」に馴染みがなさすぎて、まったくピンと来ない。
まず、ペンペン草が何のことかわからないし、
「ペンペン草も生えない」が何を言いたいのかもわからない。
「ペンペン草」という言葉が、あまり、現状にマッチしていない。
「風習」も「言葉」も、現状にマッチしていないと廃れていく。
時とともに、廃れるのはしょうがないのかもしれないが、
普段”雑草”と呼んでいる草を、”春の七草”と呼んで食べることは、
「言葉で見方が変わる」ということを知るきっかけでもある。
春の七草を探して畦を歩いていれば、
ナズナやホトケノザを「これだ!」と見つけて、
オオバコやオオイヌノフグリを「違う!」と、除けることができる。
草を”雑草”としていっしょくたにくくらず、
その”雑草”の中に「違い」を見つけることができる。
言葉を知るということは、違いがわかるということだ。
”春の七草”を知るまで知らなかった、
”雑草”の中に存在する、豊富な「多様性」に気づくということだ。
そういう意味でも、「春の七草」「秋の七草」は、
言葉として知っておいて損はないし、
風習として残しておいても、損はないと思う。
ただ、「佐賀の人が通った後は、ペンペン草も生えない」という表現は、
まったくピンと来ないので、
佐賀の人がケチだということを言いたいのであれば、
「佐賀の人は、ユニクロしか着ていない」とか
「佐賀人は、全部、ダイソーで済ます」
とか、ピンと来るものに、変えてほしい。
比喩がピンと来ないと、どうにも、もどかしい。
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