こんな文章を書いていると、まちを歩いている時にも、
こんな文章のネタになりそうなことに、目がいく。
こんな文章を書いていなければまったく目につかなかったことが、
こんな文章を書いているために、すぐに目につくようになっている。
こんな文章用の、こんなコラムの枠があればこそ、
いろいろと見えてくるものもある。
内容ではなく、「はじめに枠ありき」だ。
毎日車に乗る生活をしていると、
だんだんと尻が座席にフィットしてくる。
タントならタント用の尻に、プリウスならプリウス用の尻に、
だんだんと、自分の尻が近づいてくる。
それはお風呂においても同じで、
毎日風呂に浸かっていると、
だんだんと体が湯船にフィットしてくる。
単身用の狭い湯船なら、単身用の体に、
豪邸のどでかい檜風呂なら、檜風呂用の体に、
だんだんと、からだが湯船に近づいてくる。
人間は順応する生き物だ。
枠があると、いつもその枠に勝手に順応しはじめる。
座席や湯船などの物理的な枠だけでなく、
肩書や所属など、社会的な枠にも、人は勝手に合わせ始める。
最近では、そういうことを「寄せていく」という。
「大食いキャラ」として認知されているので、自分を「大食い」に寄せていく。
「歴女」ってことになっているので、自分を「歴女」に寄せていく。
本来ならそこそこの興味しかなかったものでも、
キャラとして認知されている以上は(もしくは認知してほしい場合は)
必要以上に、興味関心を持って、その枠に自分を寄せていく。
自ら寄せていくことで、自分を枠にきっちりフィットさせる。
この人間の性質は使いようで、
自分を変えたいならば、中身より先に、枠を変える方がてきめんだ。
でも、自分を変える必要がない時ほど気をつけなければ、
気づかぬうちに、私たちは、自然と枠に寄せていっている。
そして、知らぬ間に、枠にはまり、人を枠にはめ、
決まりきった見方でしかものごとを見なくなる。
その、自分でも気づかない「寄せ」は、
気づかぬうちに、身の回りに侵入してくるのだ。
注意しないと、気づかぬうちに、決まりきったコラムの枠には、
その枠に寄せた、決まりきった文章しか書かれなくなる。
気をつけろ。
枠は、硬直化を呼び、マンネリを招く。
これからのコラムは「です・ます」調ででも、書いてみようかしら。
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